三井の歴史にまつわる施設

三井家発祥地

執筆・監修:三友新聞社

三井グループの家祖・三井高利は元和8年(1622)に伊勢・松阪(現三重県松阪市)で生まれた。その生家跡地は「三井家発祥地」として、現在に受け継がれている。

高利が産湯をつかったと伝えられている井戸

三井家発祥地には、高利が産湯をつかったという井戸や、高利の祖父母・父母の五輪塔、第10代三井総領家当主・三井八郎衞門高棟の筆になる記念碑などが保存されている。昭和31年(1956)には、松阪市教育委員会により市の史跡に指定された。

門前には三井家発祥地由来碑が設置されており、現在に続く三井の歴史を感じることができる。

三井と松阪の縁・越後屋の起源

三井と松阪の縁は、高利の祖父・三井高安の時代に遡る。元々は近江の武士であった高安は戦国大名の六角氏に仕え越後を名乗っていたが、六角氏は上洛する織田信長の軍に敗れて逃亡。高安もまた逃れて、辿りついたのが伊勢の地であった。

それから20年後の天正16年(1588)に、豊臣秀吉に仕えた蒲生氏郷がこの地に松坂城を築城し開かれたのが松阪の町。氏郷は商業の発展に特に力を注ぎ、郷里の近江から有力商人を呼び寄せた。また伊勢神宮への街道を引き込み、宿場町としても活性化を図った。

そうして氏郷のもとで発展を遂げる松阪では、武士から商人へと転身したものも多く現れた。高安の子、三井高俊もまた、商店を開いたひとりであった。

高俊は伊勢の大商家の娘である殊法を娶り、質屋と酒や味噌・醤油を扱う商いを営んだ。父・高安の「越後守」から「越後殿の酒屋」と呼ばれ、やがて江戸を席巻する「越後屋」の屋号はここが起源であり、「三井越後屋」となって「三越」へと受け継がれている。

武士の商法と言われるように、商業都市松阪であっても畑違いの商売で武士が商いで成功することは簡単なことではなかった。「越後殿の酒屋」が成功を収めたのは、非常に聡明で商才に長けていた殊法があってこそのものだった。

高利はこの母親・殊法の薫陶を受け、商売を学ぶと同時に、松阪という基盤を持ってスタートを切ることができたのである。

松阪もめん手織りセンターに掲げられた「げんきんかけねなし」の看板

現在に残る三井の名残

松阪の三井家発祥地と同じ通りには、江戸期屈指の豪商であった小津清左衛門の邸宅が「松阪商人の館」として資料を公開している。館では千両箱ならぬ万両箱が展示されているなど、当時の江戸店持ち松阪商人がどれほどの隆盛を誇っていたかを偲ぶことができる。

松阪商人は上質で縦縞が特徴的な松阪木綿を扱うことで豪商となっていった。松阪市内の「松阪もめん手織りセンター」では、もめん製品を販売しているほか、機織りの体験もすることができる。同センターはかつて越後屋があった跡地に建てられており、入口に掲げられた「げんきんかけねなし」の看板や、越後屋跡を示す看板によって、今もその名残を伝えている。

INFORMATION

三井家発祥地

[所在地] 三重県松阪市本町2214

[URL] https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/culture-info/mitsuikehassyoti.html