三井の歴史にまつわる施設

霞が関ビルディング

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井不動産

三井不動産が手掛けた日本初の超高層ビル「霞が関ビルディング」。建築基準法の高さ制限や計画の変更など多くの苦難を乗り越えて竣工した同ビルは超高層ビルのパイオニアとして、竣工から40年以上経った現在もその姿を残している。

竣工当時の霞が関ビル。周辺の建物と比較すると群を抜く高さだった

霞が関ビル建設のきっかけとなったのは、社団法人東京倶楽部の保有する「東京倶楽部ビル」の建替えであった。依頼を受けた三井不動産は、建築基準法が定める高さ制限の31m(100尺)に収まる9階建てビルの計画案を立てた。ところが、着工しようとした矢先の昭和36年(1961)、政府から金融引締対策による着工延期を勧告される。この延期が後に超高層ビルを誕生させるきっかけとなる。

高さ制限撤廃で超高層に

その間、同じく建替えを計画していた隣接する霞会館との協議が進み、2棟の敷地合わせて建設用地は約1万6,000平方メートルとなった。また、建設大臣によりビルの高さ制限が撤廃されたこともあり、超高層ビル建設への機運は一気に高まっていった。

昭和39年(1964)、東京五輪までの新ビル竣工を望む東京倶楽部のため、「東京倶楽部ビル」が先行して完成、三井不動産は採算性悪化の解決策として当時始まったばかりの「特定街区」を申請し、同年指定を受けた。これにより容積率は当初の710%から910%、階数は基準床面積で割った36層となり、ここに空前絶後の超高層ビル建設計画がまとまり、昭和40年(1965)3月に起工された。高さ147m、地上36階、地下3階、敷地面積約1万6,300㎡、延床面積約15万3,200㎡。従来の「剛構造」では、建物を高くすればするほど柱を強くするために、地震の時に柱に負担がかかり15階程度が限度だったため、耐震設計には「柔構造」を採用。五重の塔のように柱と梁を複雑に組み合わせ、地震の破壊力を分散させる柔構造を鉄骨で実現した。

また、建設資材についても未知のことが多く、施主、設計、施工者で構成された建設委員会が中心となり、ゼネコン、サブコンの隔てなく発言し、数々の難問題を解決していった。最新の防火設備や軽量コンクリート、タワークレーンのクライミング工法など取得した特許は約40件にも及んだ。

平成の大規模改修

着工から3年後の昭和43年(1968)4月、日本初の超高層ビル「霞が関ビルディング」がオープンを迎えた。工事費は約163億円。最上階の展望回廊「パノラマ36」には連日、多くの人が詰めかけ、その盛況ぶりは当初予定していた初期の赤字をほとんど補うほどのものだった。

霞が関ビルは平成元年(1989)から6年の歳月をかけて大規模改修を実施。平成21年(2009)には低層部をリニューアルし、東京倶楽部ビルと飲食店舗が一体となった「霞ダイニング」が開業した。都心で超高層ビルが林立する中、その金字塔は竣工以来、今も多くのビジネスマンを支え続けている。

INFORMATION

霞が関ビルディング

[所在地] 東京都千代田区霞が関3-2-5

[URL] http://www.kasumigaseki36.com/