三井ヒストリー
小栗上野介と三野村利左衛門
幕末の危機を乗り越え近代化の礎を築いた二人の関係
近代化を推し進めた実務官僚
小栗上野介忠順は、幕末の幕臣の中でも際立った実務能力を持つ人物として知られ、「改革派」の象徴ともいえる。上野介の名は36歳で勘定奉行に就任したときに付けたもの。小栗家はもともと徳川譜代の三河武士で、家康とともに関東にやってきた旗本である。忠順は文政10年(1827)に神田駿河台の小栗家居宅に生まれ、幼名を剛太郎(通称名は又一)といった。
忠順は長じるにつれて才を発揮していく。17歳で初御目見得(将軍への謁見)、21歳で城中出仕、33歳で使番(伝令・巡察・監察が主な任務)となり、その後も目付役、豊後守を拝命し、安政7年(1860)1月には遣米使節団監察として米国フリゲート艦ポーハタン号で渡米した。
滞米中は製鉄や金属加工技術などの産業を視察するとともに通貨交渉を行い、第15代米国大統領のジェームズ・ブキャナンにも謁見した。帰途は大西洋側から喜望峰を回り、ジャワ、香港を経由し、世界を一周した形で同年9月に横浜帰着。こうして諸国の見聞を広め、11月に外国奉行を拝命。その後も陸軍奉行並、勘定奉行、軍艦奉行を歴任していくが、この渡米の経験が新しい経済制度を導入するための改革推進や、横須賀製鉄所(後の造船所)建設の主導、近代的な軍制育成の基盤を整えていくことにつながっていく。余談だが、忠順は陸軍奉行のときに幕府の兵制を改めてフランス式調練を導入し、当時幕臣であった後の旧三井物産※社長・益田孝も騎兵隊員としてその調練を受けている。
忠順の仕事ぶりは非常に合理的で、政治的打算はなく、国に必要かどうかを基準に判断する姿勢が貫かれていた。ただ、幕府内ではそれが異端とみなされ孤立することが多く、政治的な基盤は安定していなかった。
それでも忠順は自らの理想を曲げることなく、日本が近代国家として生き残るための財政・経済基盤づくりに全力を注いだ。その小栗忠順が改革のパートナーとして頼ったのが三井であり、三野村利左衛門だった。
三野村利左衛門と三井の縁
三野村利左衛門という名前は三井に入ったときに改名したもので、それまでは美野川(紀伊国屋)利八と称した。
幼少期から苦労を重ね、江戸に流れ着いたのは19歳の頃で、深川の鰯の干物問屋に住み込み奉公をした。25歳のときに神田三河町で油や砂糖の商売をしていた紀伊国屋の美野川利八に見込まれ、娘の婿養子となって紀伊国屋を継いだ。このときに美野川利八を襲名する。
小栗忠順との付き合いは、利八が旗本の小栗忠高(忠順の父)の家に仲間(武家に仕える奉公人)として雇われたときから始まる。忠順は6歳年上の利八とウマがあったようで、また利八も対人関係を結ぶのに巧みであったといい、ここに主従を超えた親交が築かれた。
紀伊国屋を継いだ美野川利八は、蓄えた資金を元手に小規模な両替商を始めた。そしてある日小栗邸で、洋銀との交換比率から、品位の高い天保小判1両が万延小判3両1分2朱と換価する旨の布令が出ることを耳にする。
そこで、利八はいち早く天保小判を買い集め、それを新霞町の「よしや」という両替店などに担保に入れて金を借り、さらに買い集めた。この「よしや」の主人が三井の手代をしていた関係で、利八は小判を三井に売り込んで大きな利益を得た。こうした才覚を三井の筆頭番頭である斎藤専蔵(後に純造)が認め、ここに三井と美野川利八がつながった。
幕府財政の危機
小判改鋳の目的は金の海外流出を防ぐためであったが、大量発行したことで市中にインフレと経済混乱を引き起こした。また、万延から文久へと時代が進むに連れて政情はますます不安定になり、幕府財政も悪化していった。そこで、財政逼迫の難関を乗り切るために白羽の矢が立ったのが小栗忠順であった。文久2年(1862)6月、勘定奉行勝手方に任命されると、幕府内で難事とされていた大奥の整理をはじめ、財政の立て直し策を矢継ぎ早に打ち出していく。小栗の就任以前から、幕府はたびたび三井をはじめ江戸や大坂の商人に対し、海防費などを名目として御用金を賦課しており、商家の経営を大きく圧迫していた。慶応2年(1866)2月には、長州征討軍資調達の名目で150万両という巨額の御用金拠出が三井に命じられる。
しかし、幕末の三井は越後屋本店の業績不振をはじめ、両替店における長期不良貸金の累増、開港をきっかけに開いた横浜店での浮き貸しによる大欠損と、創業以来の危機に直面していた。そこで減額を願い出るために、小栗と親交のある美野川利八を交渉後に起用した。
利八の働きもあり、150万両の御用金は50万両、その後18万両まで減額された上に、数年で分割し上納することを認められる。そして慶応3年(1867)3月、利八の嘆願の成果が「残金を納めることは免ずる」という幕府勘定方からの申し渡しで現れたのである。こうして三井は破産寸前の危機を免れた。
ただ、いくら勘定奉行と親交があるからといって、単なる口利きだけでこれほどの減額が行われるとは考えにくい。そこには、小栗の三井に対する好意と「つぶさずに利用したほうがよい」という計算、そして利八への絶大な信頼があったに違いない。
三野村に受け継がれた小栗のこころざし
幕府勘定方との折衝に成功した利八は三井入りし、以後三野村利左衛門と名を改めたわけだが、利八が御用金減免の折衝を続けている慶応2年(1866)、三井は幕府より江戸市中荷物引当の勘定所貸付金御用の取り扱いを仰せつかっている。
これは生産の振興を図るために横浜貿易における関税収入などを基金とし、江戸の問屋商人に対して商品担保の貸付を行うという施策で、幕府財政を立て直すために小栗が発案した。また、開港に伴う外国人との公金出納や貿易取引を管理する役割として、外国方御金御用達も三井は命じられている。これら業務を管轄するために、三井は大元方直属の「三井御用所」を開設し、三野村を責任者として抜擢した。三井御用所は後に海運橋為換座三井組となり、三井銀行の発足につながっていく。
軍艦奉行でもあった小栗は、財政危機を打開するためにフランス公使のレオン・ロッシュの協力を得て、生産振興や軍需工業の起業など、さまざまな施策を打ち出していく。とりわけ三井との関わりにおいて特記しておきたいのは、紙幣の発行に踏み切ったときのことだ。江戸銀座と三井に金200両、100両、50両、25両、10両、1両と6種類の札を発行させ、その兌換引受業務を三井に委ねた。幕府財政の悪化のなかで、小栗は「信頼でき、金融能力を備えた商家」を必要としていたのである。
それでも、小栗一人の力で幕府の衰退を止めることはできなかった。慶応3年(1867)10月に大政奉還、12月には王政復古の大号令が発せられた。翌慶応4年(1868)年1月、小栗は徳川慶喜の前で主戦論を主張したため遠ざけられた。その後、領地の上野国群馬郡権田村(現在の高崎市)に移り住んだが、同年4月6日、新政府誕生直後に逆賊として捕らえられ、処刑された。まだ42歳であった。
とはいえ、小栗が追い求めた近代化構想がそれで途切れたわけではない。横須賀製鉄所をはじめとする小栗の事業は新政府に受け継がれ、明治の日本の産業発展に大きく寄与した。また、渡米によって得た小栗の新知識や思想、先見性は三野村に親交を重ねるなかで吸収され、三野村は維新後も三井を率い、日本最大級の財閥へと導く役割を果たしていった。後年、三野村は「もしも先主小栗上野介が明治の時代にも生きながら得ていて、財政に関する国務大臣として用いられたならば、わが日本の財政のために明治の初めから財政は整い、経済界は活気を呈して、国家人民のためにどれほど幸福なことであったろう。私がやっていることなどは、先主からみたならば児戯にすぎない」と述懐したという。
小栗の恩に報い
妻子を救った三野村
三野村は恩義に厚い人物だった。小栗が処刑された際、母や身重の妻は難を逃れ会津に落ち延び、会津で娘が生まれる。後に東京に戻ったものの寄る辺のない一行を、三野村は深川の自邸内に新たに家を構えて匿い、庇護した。小栗家の断絶を心配して、娘の結婚の世話も試みたといわれている。三野村没後も三野村家では娘の成人まで面倒を見続け、その後娘は親族の大隈重信に引き取られる
小栗上野介忠順
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
三野村利左衛門
写真提供:公益財団法人 三井文庫
- 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.69|2026 Winter より