三井ヒストリー

越後屋創業期を支えた三井の重役たち

江戸本町に開業した三井越後屋呉服店は、元祖・三井高利の商才と革新的な販売手法、また高利の息子らの志によって繁栄への道を歩み始めた。しかしその成功の裏には、事業の拡大に伴い、組織を整え、現場を動かし、経営を支え続けた重役たちの存在がある。本記事では、越後屋創業期を支えた主要な重役にスポットを当て、彼らが担った役割や功績を掘り下げてみたい。

越後屋の奉公人と重役

三井越後屋は、なぜ江戸に進出した創業直後から急速に発展を遂げることができたのか。その要因には、まず江戸幕府が安定期に入って町民文化が隆盛し、呉服の需要など商業の発展が進んでいった時代背景が挙げられよう。そこに越後屋の革新的な商法がぴたりと合致したわけだが、加えて三井一族の枠に捉われず、有能な奉公人を上の役目に登用していく能力主義的な制度の構築も見逃せない。創業者の三井高利は奉公人の抜擢に優れた感性を持ち、育成にも力を注いだ。

延宝元年(1673)に三井越後屋が開業したとき、奉公人の数は15名ほどであったようだ。この人数は高利がまとめた奉公人の規則『諸法度集』に、支配人以下の氏名が連署されていることから判明している。

この時期の越後屋の運営実務は、松坂で指示を出す高利をはじめ、高利の息子ら三井家が直接行っていた。しかし、事業規模が拡大して奉公人の数が増えていけば、当然一族による直接的な支配には限度が見えてくる。

後の越後屋の奉公人の構成には、「手代」「子供」「下男」などが記録されている。手代は店表において営業活動に従事する立場で、子供は手代の補助(見習い、丁稚)、そして下男は台所の炊事やその他雑用を引き受ける者たちである。また、手代については名目役手代と平手代があり、上の立場にある名目役手代は、上から順番に「元〆惣頭)」「名代」「支配人」「組頭」「役頭」「上座」などの職階に分けられている。

宝永から享保にかけて三井の事業が拡大し、呉服店や綿店、両替店など多店化が進むと、それぞれの店の経営は支配人に委ねられるようになる。支配人とは、当時の大店において店舗運営、奉公人(手代・下男など)の統率・教育、仕入れ・販売の管理、取引先との交渉、帳合や金銭の出納の監督など実務全般を担う立場である。

現場の仕切りはリーダーたる支配人が責任を負うことになったわけだが、同時に支配人や単体の店舗ユニットを束ね、事業全体を統括管理するための仕組みも必要になってきた。それを担う役職が、史料では「重キ役柄」と記されている三井の最高幹部たちであった。

最高幹部らはそれぞれ店の「開山」や「中興」などと称される活躍をし、三井事業の発展に大きく寄与した。なかにはその功績により、後に三井姓を名乗ることを許されるケースもあった。

次に、幾人かの代表的な重手代たちについて触れていく。ここでは脇田藤右衛門、中西宗助、松野治兵衛という3人の活動を紹介しよう。

脇田藤右衛門

勢州横地村(現・松阪市横地町)出身。京都の店に勤めてから江戸へ移り、天和3年(1683)、江戸本店が駿河町に移転する際に支配人になって運営を主導。店の基盤づくりに貢献した。駿河町本店の開山と称され、宝永7年(1710)に元〆に昇格した。

また「現銀(金)掛け値なし」の標語で知られる、顧客が店前で現金を支払って商品を購入する越後屋の商取引に関しても、その運用の過程で脇田は重要な役割を担ったとされる。店で商品を購入するときに現金払いをするのは現代では当たり前の商習慣だが、当時の呉服店では「掛売」(ツケ払い)が一般的であった。三井はこのような慣習を打ち破って大成功し、脇田は三井商法の制度化においてとなる存在であった。

脇田が越後屋を引退したのは享保13年(1728)。同15年(1730)に「江戸重手代勤方」を申し渡されている。

享保19年(1734)に病没。死後の元文5年(1740)には三井姓を名乗ることを許され、三井八栄と称した。宝永年間に作成された『高富草案』には、三井家の外縁として「後見之家」が取り立てられており、その筆頭に脇田が位置している。

脇田藤右衛門扣(ひかえ)

脇田が江戸諸店の沿革について記したもので、享保13年(1728)に大元方の要請に応えて提出した創業期の証言。駿河町への移転について記したこのページには3行目に「支配人 藤右衛門」の表記が見られる。(公益財団法人三井文庫提供)

中西宗助

脇田と同じく勢州の出身で、近世の三井の奉公人を代表する一人。延宝4年(1676)、勢州飯高郡船江村(現・伊勢市船江)で生まれた。貞享4年(1687)、12歳で三井の松坂店に勤め、元禄16年(1703)、28歳のときに高利の次男・高富らに才能を認められて京本店の名代役に就任。宝永7年(1710)の大元方設立の際に元〆となり、享保15年(1730)には大元〆という最高職階に就任。長く三井首脳部の中核を担った。

中西は高富との間に強い信頼関係を築き上げ、三井の事業運営において数々の重要な役割を果たしている。京本店の運営や規則の制定に関与し、享保2年(1717)11月には、宗竺(高利の長男・高平)らすべての同苗に宛てた「中西宗助覚」という文書を通じて改革の徹底を進言。大元方設立前後の店々統合のさまざまな試みを箇条書きで記し、三井家の「身底一致」の枠組みのなかで事業の統合に尽力した。

享保18年(1733)に京都で病没(58歳)。死に際しては、本店の重役たちによって諸葛孔明の死になぞらえられ、後に「店商之建家法等之建方旧功有之」(店の商売の基礎や家法の制定などに以前から功績があった)として三井姓を許された。

中西宗助覚

中西が享保2年(1717)に作成したもので、大元方で保管されていた原本。中西自身の勤務歴が記されているため事業の変遷や大元方設立の経緯を知ることができるほか、三井一族に対し自らの進退を賭して改革の徹底を進言しているなど、貴重な記述が多い。(公益財団法人三井文庫提供)

松野治兵衛

松野治兵衛は大元方の元〆として三井の中枢で活躍。ただ脇田や中西のような出身地や生年を示す記録に乏しく、以下その事績のみを記す。

正徳年間の末期頃(1715前後)、京両替店は代官所やほかの商人からの借り入れがかさみ、経営が不安定な状態に陥っていた。松野はそうした京両替店を担当し、享保元年(1716)の「新建」(新しい規定・制度を定めた文書)の改訂を通じて経営改善を図った。

ところが、その年の「大元方勘定目録」(三井家全事業の資産と収支を把握するための年間決算帳簿)において、京両替店は「功納外延銀」をまったく計上できず、業績が芳しくないことが明らかになった。功納外延銀とは、毎期定められた上納金の「功納」とは別に、留保された利益を3年ごとに大元方へ納める追加の利益上納金のこと。京両替店の不振は松野の経営に対する批判を招くことになる。一方で、中西宗助率いる本店一巻は圧倒的な業績を上げていた。そのため、松野の両替店はそれと比較されることが多く、競争の中で苦戦を強いられるようなこともあった。

それでも松野は大元方設計者の一人であり、中西宗助とともにその設立に深く関与している。宝永期からの三井の実力者として、延享2年(1745)までの長期にわたって大元方に列席し、運営において重要な役割を果たし続けた。大元方における継続的な関与は、三井の事業組織内で松野の影響力が決して小さくなかったことを示している。

松野は脇田や中西同様、後に三井姓を名乗ることが許され、三井家の外縁としての「後見之家」に名を連ねている。

創業期の江戸本店を束ねた支配人

越後屋創業期の史料には、江戸店の初期支配人の一人として、石原七左衛門と呼ばれる人物が登場する。三井越後屋は江戸本町一丁目に出店してしばらくすると、同業者から脅しや嫌がらせを数々受けることになるが、その際に奉公人の離反を防ぎ、店をよく束ねた人物として記録されている。その功績から、七左衛門は死後に三井姓を認められている。また、高利の長女みね(峰)と婚姻したことも史料で確認できる。

本文中に紹介した宝永~享保時代の最高責任者としての3人とはやや違う立場ではあるが、三井家と親族的に結び付いた重要な実務責任者であり、同じく三井姓を許されていることから、石原七左衛門もここに紹介しておこう。

写真提供:公益財団法人三井文庫
三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.68|2025 Autumn より

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