三井史を彩る人々

三井高利
三井家の家祖

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

三井高利夫妻像(1622~1694)

商家の8番目の末子

三井グループの歴史の源となる三井家の家祖・三井高利は元和8年 (1622)、伊勢松阪に生まれる。通称は八郎兵衞。父・高俊と妻・殊法には4男4女があり、高利は8番目の末子であった。

武士であった高利の祖父・高安は織田信長に敗れて松阪まで流浪し、子・高俊は刀を捨て、質屋や酒・味噌の商家を営んでいた。高安の官職が越後守であったことから、店は「越後殿の酒屋」と呼ばれる。高俊は商いに関心が薄く、家業は実質的には殊法が取り仕切っていた。商才に優れた殊法は「質流れ」や「薄利多売」など当時では画期的な商法を多く取り入れ、家業を発展させた。後に豪商となる高利の商才も、殊法の影響によるものが大きい。高利は兄たちに続き、14歳で江戸へ出て、長兄・俊次の営む呉服店で奉公する。

江戸進出の機会を待つ

慶安2年 (1649)、母・殊法の世話のため松阪へ帰郷していた重俊が36歳で死去する。俊次から代わりに母の面倒を見てくれるよう頼まれた高利は松阪へ帰国。郷里で豪商の中川氏の長女・かねと結婚し、10男5女をもうける。高利は江戸での資金を元手に金融業にも乗り出して蓄財しつつ、江戸進出の機会を静かに待った。

そして延宝元年 (1673)、52歳の高利は俊次の死を契機に、殊法の許しを得て、江戸本町1丁目に「三井越後屋呉服店」(越後屋) を開業。同時に京都にも仕入れ店を置き、高利は松阪から長男・高平たちに指示を出し、店を切り盛りさせた。

新商法で大繁盛

高利が編み出した画期的商法が「店前売り」「現銀 (金) 掛値なし」などである。当時、呉服店は得意先に見本を持って行き注文を取る「見世物商い」か、商品を得意先で見てもらう「屋敷売り」が一般的であり、得意先は、大名・武家・大きな商家などで、支払いは、6月と12月の二節季払い、または12月のみの極月払いという掛け売りだった。

この方法では、人手も金利もかかるので、当然商品の価格は高く、資金の回転も悪かった。高利はこれを改め、店頭での現金定価取引きを奨励、資金も早く回転し、掛け値もないので、商品を安く売ることが可能となった。また、呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りを断行して庶民の人気を集めた。しかし、同業者からは迫害を受けるようになったため、天和3年 (1683)、店舗を駿河町に移転させ、新たに両替店を開く。高利は両替店を活用した為替でも商才を発揮、江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方を引き受け、江戸・大阪・京都の3都で盛業した。

江戸に身を置かず

高利は「遊芸に気を入申事無之、一生商の道楽」とし、商売以外は興味を持たなかった合理的な人間と評されることもあるが、家族との書簡からは暖かい人柄もうかがえる。

なお、江戸で成功を収めた高利だが、28歳で松阪へ帰郷して以来、再び江戸に下ったという正式な記録は残っていない。越後屋開店に伴い高利が江戸に足を運んだかは定かではないが、子どもたちは父・高利に仕事上の悩みを手紙で相談していたことからも、江戸に身を置くことはなく、松阪にあって、指示を出していたものと思われる。

晩年は京都に住み、元禄7年 (1694)、73歳で死去した。高利一代で築いた財産は7万両以上といわれる。

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