三井ヒストリー

呉服商品の多様化と
仕入れ地の全国への広がり

江戸で呉服商いをスタートした三井越後屋だが、 商売をするには当然ながら安定した商品仕入れが求められる。 江戸初期においては、その供給地は主に京都とその周辺であった。 しかし、時代が下るにしたがい、商品の産地は日本全国に大きく広がりを見せていく。 今回は三井越後屋の呉服部門における商品仕入れの内容について探っていこう。

呉服販売における商品仕入れ

三井越後屋が江戸本町で開業(延宝元年/1673)するとき、三井高利は長男の高平に商品供給の拠点となる店を京都に準備することを命じ、室町蛸薬師に仕入店を開いている。江戸時代の初期には、西陣織をはじめとする高度な織物の技術は京都に集中していたからである。

三井越後屋に限らず、当時江戸で大きな商売をしている有力な呉服商人は、京都に商品の仕入店を持つのがひとつのスタイルだった。

高利は高平を京本店の仕入れ担当者とし、自身は松坂から事業運営の指示をした。京本店では絹織物を仕入れて加工し、営業店である江江戸本店や、後に進出する大坂の販売店に送って販売していた。

やがて江戸店が繁盛し始めると、仕入方の京都店も手狭となり、最初に蛸薬師に設けた店を移転して拡大。また、貞享2年(1685)には、仲買人を経由せずに西陣織物を直接買い入れる「上之店」と呼ばれる店も新設している。

上之店の設置に際して高利が息子らに指示したのは、「先金し」という、前払い(前貸し)による西陣織物の買い付けである。

これまで、呉服店が西陣織の織屋で商品を買い付けるときは、商品と引き換えの現金売買であり、その意味で両者は売り手と買い手という対等の立場であった。

ただ、それでは織屋に商品がなければ仕入れることはできないし、欲しい商品がすぐ手に入るとも限らない。そこで、上之店ではこうした現金決済の取引を超え、前払いすることで計画的に商品を仕入れることができるようにしたのである。

先に支払うことで仕入れ値を安くでき、しかも、すでに支払い済みなのだから織屋に対してモノが言える立場に立つこともできた。上之店の設置は、西陣の織屋や仲買商の経営を三井越後屋の支配下に置くような意味をもたらしたといえる。

京都にはこの上之店のほか、紅染め加工を担う紅店、御用呉服を取り扱う勘定場があり、江戸には糸物屋である糸見世などの店舗があった。越後屋は販売店であると同時に、絹織物を取り扱う呉服問屋としての側面も備えていたのである。

京本店は仕入れを行うと同時に、三井越後屋の多くの店舗の統括を行い、事業の指揮系統の中心であった。また、貞享3年(1686)、三井は京都に両替店を開き、65歳になった高利は両替店の奥に居宅を構えて松坂から移り住んでいる。やはり、高利にとって京都の地は、松坂にいるよりも事業の指揮を執るのに都合が良かったからではないだろうか。

ちなみに、両替店については京都よりも江戸のほうが3年ほど早く、天和3年(1683)に駿河町で開設されている。

布地づくりの産地の拡大

江戸時代も中期になると、西陣物をはじめとする織物生産の高度な技術は京都から地方にどんどん伝播し、丹後や加賀をはじめ上野(上州)、武蔵などの関東エリア、陸奥などの東北地方でも上質な絹織物がつくられるようになった。

また、木綿は江戸時代の前半から伊勢松坂や河内・和泉で織られていたが、尾張や三河、山陰の伯耆や出雲、四国の阿波など綿作を行う地域が拡大するにつれ、綿作地の周辺でも木綿織りが盛んになっていった。こうして各種布づくりの産地の広がりに伴い、三井越後屋の呉服部門では、仕入れ地と仕入れ商品のバリエーションが増えていく。

越後屋の仕入れは京本店のほか、関東のものは江戸向店が担っていた。越後屋の商法は安価で仕入れ、薄利多売でさばくため、それぞれの布地の生産地から問屋や仲買を通さず直接仕入れることが必要であった。そのための手段として採られたのが、「買宿」と呼ばれる生産地における仕入れ拠点であった。

縞見本

生産者が自身の織った縞柄の木綿を記録として残したもの。この松坂木綿の縞見本は文化3年(1806)から作られたもので、三井文庫で昭和6年(1931)に受け入れた(公益財団法人 三井文庫所蔵)

買宿の仕入れと役割

買宿には現地の問屋や仲買人、有力商人を任命した。そして仕入れ資金を前貸しして注文に応じた商品を仕入れさせ、江戸や大坂の越後屋の販売店に送らせていた。

江戸中期における越後屋の仕入れ品と仕入れ先の例をいくつか見ていこう。

近江布

琵琶湖の湖東地域で生産される上質な麻布。越後屋京本店は元文5年(1740)頃から在地の買宿を通して近江布を仕入れている。

越後

越後縮の産地は魚沼郡の十日町や小千谷など。京本店と江戸本店、江戸向店とがそれぞれ別個に買宿を置いて仕入れており、さらに京都糸絹問屋である糸店(越後屋喜右衛門)も越後縮の荷受けを行っていた。越後屋にとって越後縮は利潤の大きな商品のひとつであり、その仕入れにも力を入れていた。

伯耆木綿

越後屋京本店の白木綿の集荷地は、山陰地方の因幡、伯耆、出雲であった。伯耆国赤崎村の商人に紅花の買い付けをさせていたところ、当地では木綿を多く織っていることを知り、天明2年(1782)10月から現地の商人に木綿の買宿をさせて仕入れることになった。

他に先んじて仕入れ始めた伯耆木綿については、店内でも産地を秘密にして尾州木綿と称するほどだった。

桐生織物

特に上州・秩父絹の産地のなかで、桐生は高度な織り技術と染色技術により京の西陣織物に匹敵する高級絹織物として傑出するようになっていた。京本店は早くからこの桐生織物に着目し、買人を送って仕入れを行っていたが、明和8年(1771)には江戸本店が現地の買宿を指定して直接の仕入れを始めている。

尾三木綿

近世の主要な木綿生産地帯のひとつに尾張、三河が挙げられる。越後屋の江戸向店では早くから尾三木綿の仕入れを行っていた。ただ、同地域では買次問屋網が整備され、価格形成の力を持っていたため、買宿による直接の仕入れを行うことはできず、買次問屋からの仕入れとなっている。

奥州絹と真綿・

江戸向店の仕入品のなかには、奥州川俣の買宿の仕入れによる平絹織物や、信州紬・結城紬などの紬類、それに真綿が記録されている。

越後屋の主要な仕入地と仕入品

このように越後屋の買宿は越後の十日町、信濃の上田・中野、上州の藤岡・桐生、武蔵の青梅・八王子、山陰の伯耆・出雲など、重要な仕入地に多く置かれた。越後屋は買宿に対して、仕入れた荷物量に応じて手数料を支払っていた。また、買宿は単に商品を仕入れるだけでなく、現地の生産状況や価格などの情報を越後屋に伝えることも重要な任務であった。

三井越後屋といえば「現金(銀)掛け値なし」や「店前売り」、また「引札」など小売り販売店としてのアイデア商法が注目されるが、買宿を通して生産地と密接な関係を築き、良質な商品を大量に、かつ安価に仕入れるための影の努力も続けていたのである。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.59|2023 Summer より

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