三井の特集

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三井百科

越後屋の奉公人の採用

三井家の家祖・三井高利は、延宝元年(1673)に呉服店「越後屋」を江戸に開店する際に、店の規則を作成した。その内容を要約すると、手代が奉公人・雇人などの身元保証に係わってはいけない、手代や下男などは請人がいない場合は使ってはならない、手代が無断で親類や知人に掛売をしてはいけない、知人より金銀を借用して使ってはいけない、など厳しいものである。

奉公人は、越後屋の開店当時は10名余りだったが、店舗の拡大とともに増加し、享保18年(1733)には、本店一巻(江戸、大阪、京都の店)で683人となっていた。高利の作成した店の規則は、その後内容を変えつつも、店と奉公人の格を保つものであった。

越後屋では、丁稚のことを「子供」と呼んでおり、ほとんどが13〜14歳で採用された。

創業時の江戸本店は、採用された者は関東の者が多かった。

しかし、元禄16年(1703)の『支配勤集』では、江戸本店の奉公人は京者または京から三里までの者にし、採用時の江戸行きを断るものを採らないとしている。『三井事業史本篇第一巻』(公益財団法人 三井文庫刊)には、「地縁的な関係を断ち切って、奉公人の不正行為などを発生させないためでもあるが、やはり三井家と経営の中心地である京都で『主人一致の手代』を一括して雇うという大きなメリットがあってのことであろう」と解説されている。

京本店で採用者の人柄や働きぶりを見て、江戸店に行く者、三井同苗の家に行く者などを決定した。もちろん見習い期間中に、不採用となる者もいた。

京本店の「家内式法帳」に、「手代は10日のうち、子供は30日以内」と、見習いを抱えた時の書状の提出規定がある。採用決定者は、身元保証人2名を記した「奉公人請状」を提出して、正式の奉公人となった。短期間での能力の見極めは難しく、見習い期間が1年近い者もいた。

(2013年3月29日更新)