三井の特集

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三井百科

三池炭礦赴任までの團琢磨

團琢磨(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)

團琢磨(国立国会図書館
近代日本人の肖像より)

「三井三池炭礦の育ての親」と言われた團琢磨は、ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航して幕府に開国を迫った「黒船来航」から5年後の安政5年(1858)8月1日、筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士馬廻役200石の神尾宅之丞の四男として誕生。幼名は駒吉。

12歳の時、福岡藩勘定奉行團尚静の養子となる。明治4年(1871)、後に日露戦争中に米国で和平交渉をおこない、司法大臣、農商務大臣などを歴任した金子堅太郎と共に旧藩主にあたる黒田長知の供に選ばれ、岩倉使節団に同行して渡米、そのまま留学。ボストンのマサチューセッツ工科大学の鉱山学科で最新の鉱山学を学んで卒業、明治11年(1878)に帰朝した。一緒に渡米した金子はハーバード大学へ進み、交友は帰国後も続き、團は金子の妹芳子と結婚して義弟となる。

團は帰国後、福岡県から三池炭礦調査を依頼されたがうまくいかず、入省を希望した工部省から無視され、学んだ専門知識を活かす職もなく、大阪専門学校(旧制第三高等学校の前身)助教授などの教職を渡り歩いて、専門外の天文学まで教えた。当時は、西南戦争や福岡で起こった反政府運動の影響で、「福岡県人は危険分子が多い」と噂され、金子堅太郎でさえ官途から閉め出された。工部省は幹部を外国人技師や工学大学校(東京大学工学部の前身)出身者で占められていて極めて排他的だった。

帰国してから6年後の明治17年(1884)、工部卿が土佐出身の佐佐木高行に交代したのを機に團は念願の工部省入りを果たした。当時26歳。入省してわずか3カ月で、官営炭鉱として開発が本格化し、旧三井物産の手で採掘された石炭が輸出されていた三池炭礦に技師として派遣されることになる。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

(2017年2月16日更新)