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三井家から三井グループへ
高利の死後、三井家の事業は嫡男・三井高平(総領家当主)が高利の遺言に基づいて宝永7年(1710)に京都に設置した「三井大元方」によって初めて統括されました。
三井大元方
三井家全事業の最高統制機関として京都・江戸・大阪の越後屋呉服店および両替店を統括し、三井家の財産を一括管理していました。今で言うところの資本金は15万両と言われています。そのほかにも、親族が新たな事業を行いたいと申請して、認められれば資金の貸し出しを行っていました。こうして延亨2年(1745)には、三都にあった両替店の商益は最高に達しました。
「三井家同族会」と「三井元方」
維新後の明治5年(1872)には呉服業分離に伴い、両替店を中心とした「三井組」が成立しました。その後、明治26年(1893)に「三井家同族会」と「三井元方」が設置されました。

「三井元方」は「三井家同族会」に付属する事務機構として、全般にわたる事務を統括していました。両機関とも法人格を有さない任意団体で、代表は当時の総領家当主・三井高棟(たかみね)が務めました。明治9年(1876)に三井銀行と旧三井物産が営業を開始したほか、明治25年(1892)には三井鉱山が設立されるなど、事業の幅が広がったことで、事業と私的なものの区別をつける目的があったようです。

「三井家同族会」は現在同名称の組織へ移行していくことになります。三井家同族会の名称は特に外部には公表しませんでしたが、明治39年(1906)に、高棟を代表とする三井11家の私財により、財団法人三井慈善病院(現三井記念病院)が設立されたことは、世間に広く知れわたりました。
「三井合名会社」の設立
「三井元方」は、三井銀行、旧三井物産、三井鉱山などを統括していましたが、明治42年(1909)にこれらの会社を株式会社へと改組したことで、民法・商法に適合した機関として三井合名会社が設立されました。

三井合名会社」は欧米の財閥の例を参考に、「大元方」を近代的に改組した持株会社です。出資社員は三井11家に限定され、外部からの資本参加はありませんでした。合名の定款には「有価証券及び不動産の取得利用及び農林事業製茶業」と記されており、あらゆる事業を支配し、資本の投下および運営、三井一族に対する監督を行い、グループのいっさいの活動が、合名を軸として運営されていました。ここから農林事業と製茶業が独立して「日東拓殖農林」すなわち現在の「三井農林」となりました。
旧「三井物産」との合併
当時の日本政府は臨戦体制の整備を急務とし、軍備拡張経費などを捻出するための大増税案を発表しました。同案が議会で可決されるに至り、三井合名は改組の実施を急ぐことになります。合名会社の形態では税制上極めて不利でしたので、これを株式組織に改める必要が生じたわけです。しかし合名を直接に株式会社にすれば、またしても巨額の税金を課されます。

そこで考え出されたのが、合名を旧三井物産に吸収合併させて新会社を作るという方法でした。子会社が親会社を吸収するという、実に変則的な手段ではありますが、増税案施行は目前、時間がありませんでした。立案から数カ月後の1940年3月20日、計画は実行され、新たに旧三井物産が誕生、三井は新税法施行による多額の課税を免れたのです。
「三井総元方」
当時の財界の話題をさらった大改組でしたが、それはあくまで形式的なもので、新会社の本社機構の中には、三井傘下全事業の統括機関としての一面を保持するため、新しく「三井総元方」が置かれました。法人格を持たず、したがって資本金などもありませんでしたが、三井総領家の高公氏を議長とし、旧三井物産をはじめ直系主要会社の代表者を理事会の決議で決定するなど、実質的統帥力を持っていました。なお、三井銀行、三井信託、三井生命の金融3社の株式は、その業務の性質上独立が望ましいとされ、三井家が直接所有することになりました。
三井本社の創設
昭和15年9月、旧三井物産は三井合名を合併して、納税資金の調達を図りました。しかし、旧三井物産と三井合名の両者は、もともと事業内容から機能がいちじるしく異なっており、機構上の無理が表面化してきました。そこで、旧三井物産から商事部門、工業部門を分離して、残りの持株会社としての資産に、三井総元方の統轄機構を併せ、昭和19年3月に創設されたのが、「三井本社」でした。

資本金は公称3億45万9,500 円、払込みは2億4,736 万7,275 円で、旧三井物産の資本金のまま。社長には三井高公氏が就任しました。

分離された商事部門は、新「三井物産」(資本金1億円)、工業部門は「三井木材工業」(資本金3,000 万円、現・三井物産ハウステクノ)となったのです。
当時の三井直系会社とその他の会社
三井本社は新たに、旧三井物産、三井鉱山、三井信託、三井生命、三井化学、三井不動産、三井船舶、三井農林、三井造船、三井精機の10社を「直系会社」に指定しました。また子会社・孫会社から、「準直系会社」を新しく選んだのです。指定されたのは、日本製粉、三井倉庫、大正海上火災、熱帯産業、東洋棉花、三機工業、東洋レーヨン、東洋高圧、三井油脂、三井軽金属、三井木材、三井木船建造の12社。その他、傍系会社もあり、総計151 社に及びました。
終戦後の三井本社と三井系企業
昭和20年8月15日に終戦となり、同年9月GHQ(連合軍総司令部)は、日本の産業や金融を支配してきた財閥を解体することを示しました。昭和21年9月三井本社の解散が決まり、昭和22年7月にはGHQの指示により、三井物産が解散となりました。

昭和24年9月には、「三井」「三菱」「住友」の財閥の商号と商標の使用禁止もGHQから発せられ、三井信託は東京信託、三井生命は中央生命というように名称変更をしたのです。三井の名の付く企業は8社のみとなりました。旧財閥の商号と商標を守ろうと、三井側はGHQにかけあうため、アメリカ人の弁護士を雇い交渉にあたるなど、様々な方法を試みました。この思いは、三菱と住友も同じで、三井と共同して抵抗運動を繰り広げ、昭和27年5月から旧名を取り戻しました。この旧財閥同士の協力の記念に、三菱のエレベーターを一基、三井本社のあった三井本館に設置したのです。

なお、三井本社は解散を決めても清算業務は続けられ、昭和31年、三井不動産に吸収合併されました。
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