三井の歴史

三井広報委員会
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大正・戦前期 〜事業拡大と戦争への道〜

下記コンテンツは「三井史を彩る人々」と併せてご覧ください。

三井史人物集 三井史を彩る人々

團琢磨暗殺と池田成彬の改革執筆・監修:三友新聞社

團琢磨暗殺を報じる翌日の新聞(『三井事業史』より)

團琢磨暗殺を報じる翌日の新聞(『三井事業史』より)

昭和7年(1932)2月、金解禁の責任者・井上準之助前蔵相が血盟団員・小沼正に暗殺される。昭和ファシズムが広がる中で政党や三井・三菱・住友の各財閥トップの要人もテロの標的とされた。

同年3月5日午前11時25分、三井合名理事長・團琢磨の乗った車が日本橋の三井本館南側・三越寄りの玄関前に着いた。この頃、團の身辺には危険が予想されていたが、團は「自分はなにも悪いことをしていないのだから殺される理由はない」と護衛が付くのを嫌がり、側近が勧める防弾チョッキも着用しなかった。ほかの三井の重役は三井本館裏手の「金門」から出入りしていたが、團は客の出入りが多い三越側玄関を使用することも止めなかった。

その日、團が三井本館入り口の階段を上りかけたとき、一青年が横から割り込み、拳銃を團の左胸部に押し当て発射した。同時に團は昏倒、犯人である22歳の血盟団員・菱沼五郎はすぐさま取り押さえられた。團はすぐに医務室に運ばれ手当てを受けたが、銃弾は心臓に命中しており、間もなく死亡した。享年75。

三井財閥の理事長であり、日本工業倶楽部初代会長、日本経済連盟会会長を歴任した大物の死は翌日の新聞はもちろん、世界各地にもニュースとして伝えられ、特に交流の深かった海外の関係者から弔意が多く寄せられたという。

團の死は三井にとって大きな衝撃であった。理事長を失った三井合名は改革を迫られ、副社長制を導入。三井合名社長・三井八郎右衞門高棟は昭和8年(1933)、嗣子である高公に家督を譲り、48年間にわたる三井総領家当主の座から引退するとともに、三井銀行常務・池田成彬や三井信託社長・米山梅吉など4名の理事を新たに加え、三井合名の正副社長を含めた7人による合議制を敷いた。

三井報恩会は社会貢献事業へ3,000万円を寄付した(『三井事業史』より)

三井報恩会は社会貢献事業へ3,000万円を寄付した(『三井事業史』より)

同年、三井合名常務理事となった池田は高公とともに三井内の改革を進める。まず直系会社の役員である三井家一族を第一線から退かせ、次に社会貢献事業のための組織「財団法人三井報恩会」の設立を発表。3,000万円を寄付するとし、「三井が公共事業にぽんと三千萬圓」など各紙で話題となった。当時の3,000万円は現在の数千億円にも匹敵する額で、三井合名の2年分の所得であった。三井はこれまでも年間600万円ほどの寄付を行っており、反対意見も多かったが、池田は「三井はもう金儲けをやるべきじゃない。社会のためにどんどん使え」と述べ、社会貢献事業を推進した。

昭和9年(1934)に設立された三井報恩会の最初の事業は100万円を支出してラジウムを購入、財団法人癌研究会に設備とともに寄付した。このような三井報恩会の助成事業は昭和19年(1944)までの10年間に3,900項目以上にも達した。さらに池田は三井系各社の株式公開や合名及び直系会社に定年制を導入。68歳の自らもこの決定に従い、長年の三井での生活にピリオドを打った。

ただ、こうした池田の奮闘努力も財閥批判の世相を好転させることはできず、「三井の防衛策」として冷やかに見られていた。