小栗家は、平貞盛の弟・繁盛から出たといわれ、広忠時代(家康の父)から徳川家に仕えたという、旗本屈指の名家です。忠順は、万延元年(1860)幕府が米国と結んだ通商条約批准のための使節の目付として米軍艦パーハタン号で渡米。帰国後、幕府の外交を担当する要職中の要職、外国奉行に任じられています。以降、江戸町奉行、歩兵奉行などを経て、慶応元年に勘定奉行、慶応2年8月に海軍奉行並兼務、同12月に陸軍奉行並兼務に任じられ、これで勘定、陸軍、海軍を握る徳川政権第一の実力者になったわけです。
この時期の幕府財政は、金の流失や外国人の殺害にともなう賠償問題、長州征伐のための戦費などのため、窮地に陥っていました。そこで幕府が考えたのは、三井をはじめとする豪商から御用金という名の献金命令です。慶応2年(1866)2月、三井は幕府から長州征討軍資金という名目で150万両という巨額の御用金を課せられました。当時の三井の財政はかなり苦しく、しかも横浜店が預かった政府公金の塞り金の不足問題で、苦しい立場にありました。
その交渉役として、三井以外の人材を求めた結果抜擢されたのが、当時、店に出入りし、かつて勘定奉行の小栗上野介と主従関係にあった三野村利左衛門だったのです。三野村は、かつて元勘定組頭、小田信太郎を通じて勘定奉行の小栗上野介を説得します。結局、嘆願の末、御用金額を50万両に減額、しかも3年にわたる分納という大成果を上げることになりました。
なぜ、このような交渉が成立したか。おそらく三井のような大商人に対し過度の御用金を課して弱らせるより、育成して末長く幕府経済の支柱にしようと考えたのがもっとも妥当だと思います。その証拠に、このすぐ後、幕府は横浜貿易の関税収入の一部を商品担保貸し付けに回すという商務を行うことに決め、その実務を三井が担当することになりました。
この構想は、小栗上野介が幕府財政建て直しの一環として打ち出したものですが、三井側も業務を本店から切り放して、新たに「三井御用所」を設置して、担当者に三野村を雇い入れました。この時、三井家の「三」をとって正式に「三野村利左衛門」と名乗ることになります。慶応2年10月、「御用所勤務、御用所限り通勤支配格」という資格で、45歳の三野村は正式に三井に採用され、これ以降、三井史のみならず日本史に多くの業績を残すことになります。