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歴史Q&A
三井史を彩る人々
三井家の家祖 三井高利
三井の快男児 中上川彦次郎
「男爵」を授けられた 團琢磨
大蔵大臣も務めた 向井忠晴
三井の苦難を救った男 三野村利左衛門
旧三井物産の初代社長 益田孝
日本銀行第14代総裁 池田成彬
日本のビール王 馬越恭平
三井高利
江戸に呉服店「越後屋」を出店
三井高利(1622〜94)
三井グループの歴史の源となる三井家の家祖。三井家発祥の地である三重県松阪市には、三井高利の生家跡が今も保存されており、昭和31年に松阪市教育委員会から史跡の指定を受けています。

三井高利は、延宝元年(1673)8月、52歳の時に伊勢・松坂から出てきて、江戸本町1丁目に「越後屋」という呉服店を開店しました。これは、現在の日本銀行の新館(東京都中央区日本橋本町2丁目)辺りです。当時はここに、江戸城を起点として奥州へ続く道が通っており、呉服店はもちろんのこと様々な店が並び、人通りで賑わっていました。
新商法で大繁盛
高利は「現銀掛け値なし」という新商法を掲げ、呉服の価格を下げ、また、呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りをして庶民の人気を集めたのです。

当時、大きな呉服店は、得意先に見本を持って行き注文を取る「見世物商い(みせものあきない)」か、商品を得意先で見てもらう「屋敷売り(やしきうり)」をしていました。得意先は、大名、武家、大きな商家で、支払いは、6月と12月の二節季払い(にせっきばらい)、または12月のみの極月払い(ごくげつばらい)という掛け売りでした。この方法は、人手も金利もかかるので、当然商品の価格は高く、資金の回転も悪かったのです。

高利は、その逆をいき、店頭での現金取引きを行いました。この方法なら資金も早く回転し、掛け値もしないので、商品を安く売ることが可能です。庶民に喜ばれ、越後屋に人気が集まったのは当然でした。延宝4年(1678)秋、高利は二番目の店を江戸本町二丁目に開き、両店とも大変繁盛したと言われています。

しかし、同業者に恨まれ、迫害を受けるようになりました。江戸の大火によりこの2店を焼失したのを機に、天和3年(1683)に江戸駿河町に「越後屋呉服店」を開店。その場所は、現在、三越本店の三井本館(三井住友銀行と三井信託銀行のあるビル)側にある地下鉄入口付近に当たります。そして、その西隣りに呉服業の補助機関として「両替店」を設けました。ここは商業地ではなかったので、高利はビラを配ったり、雨が降ると越後屋のマーク入りの傘を無料で貸し出したりして、店のPRに努め、2年後には店を拡張するまでになったのです。

高利は、江戸出店と同時に京都に仕入店を開き、元禄4年(1691)には大阪・ 高麗橋一丁目にも呉服店と両替店を開店。短期間で、呉服、両替ともに幕府の御 用達になるほど発展していきました。
三野村利左衛門
苦難の少年時代を乗り越え、才覚を現す
三野村利左衛門
(1821〜77)
三井家に雇われるまでの経歴ははっきりしませんが、本人が口述した回顧録や断片的な資料によると、文政4年(1821)、出羽庄内藩水野家の家臣関口彦右衛門為芳の三男として生まれたと伝えられています。7歳の時父が浪人し、諸国を流浪しました。三野村は苦難に満ちた少年時代を送ったようです。

父の死後、江戸に出て、深川の干鰯問屋丸屋で住み込み奉公などをしていました。この間に、後に上野介の名で勘定奉行や海軍奉行並などの重職を務め、幕末史に名を残した小栗忠高、忠順親子の知遇を得て、雇中間を勤めたこともありました。

神田三河町で砂糖・菓子を商う小商人に認められて、婿養子として家督を継いだ三野村は、行商を行い、金を貯め、これを元手に両替商の株を買いました。旧主である小栗家に出入りしているうちに、天保小判一両が洋銀との交換比率を調整するために、万延小判三両一歩二朱と交換する布令を出すとの噂を耳にし、天保小判を買い集めて巨利を得たといいます。またこの間の機敏な働きが認められて、三井両替店に出入りするようになり、主筋までその名が知られるようになったと伝えられています。
三井家と幕府との交渉役として抜擢される
小栗家は、平貞盛の弟・繁盛から出たといわれ、広忠時代(家康の父)から徳川家に仕えたという、旗本屈指の名家です。忠順は、万延元年(1860)幕府が米国と結んだ通商条約批准のための使節の目付として米軍艦パーハタン号で渡米。帰国後、幕府の外交を担当する要職中の要職、外国奉行に任じられています。以降、江戸町奉行、歩兵奉行などを経て、慶応元年に勘定奉行、慶応2年8月に海軍奉行並兼務、同12月に陸軍奉行並兼務に任じられ、これで勘定、陸軍、海軍を握る徳川政権第一の実力者になったわけです。

この時期の幕府財政は、金の流失や外国人の殺害にともなう賠償問題、長州征伐のための戦費などのため、窮地に陥っていました。そこで幕府が考えたのは、三井をはじめとする豪商から御用金という名の献金命令です。慶応2年(1866)2月、三井は幕府から長州征討軍資金という名目で150万両という巨額の御用金を課せられました。当時の三井の財政はかなり苦しく、しかも横浜店が預かった政府公金の塞り金の不足問題で、苦しい立場にありました。

その交渉役として、三井以外の人材を求めた結果抜擢されたのが、当時、店に出入りし、かつて勘定奉行の小栗上野介と主従関係にあった三野村利左衛門だったのです。三野村は、かつて元勘定組頭、小田信太郎を通じて勘定奉行の小栗上野介を説得します。結局、嘆願の末、御用金額を50万両に減額、しかも3年にわたる分納という大成果を上げることになりました。

なぜ、このような交渉が成立したか。おそらく三井のような大商人に対し過度の御用金を課して弱らせるより、育成して末長く幕府経済の支柱にしようと考えたのがもっとも妥当だと思います。その証拠に、このすぐ後、幕府は横浜貿易の関税収入の一部を商品担保貸し付けに回すという商務を行うことに決め、その実務を三井が担当することになりました。

この構想は、小栗上野介が幕府財政建て直しの一環として打ち出したものですが、三井側も業務を本店から切り放して、新たに「三井御用所」を設置して、担当者に三野村を雇い入れました。この時、三井家の「三」をとって正式に「三野村利左衛門」と名乗ることになります。慶応2年10月、「御用所勤務、御用所限り通勤支配格」という資格で、45歳の三野村は正式に三井に採用され、これ以降、三井史のみならず日本史に多くの業績を残すことになります。
中上川彦次郎
福沢諭吉の甥として生まれ慶應に学ぶ
中上川彦次郎
(1854〜1901)
中上川は、安政元年(1854)、豊前(大分県)中津藩奥平家の藩士・中上川才蔵の長男として生まれました。母親の4歳下の弟は、慶応義塾の創始者・福沢諭吉です。中上川は後に三井銀行の理事に就任し、近代的な改革を打ち出し、また、他の三井企業の近代化にも力をおよぼしたため、「三井の革命児」とも呼ばれています。

福沢にあこがれ洋学に関心をもった中上川は、14歳の時に故郷を離れ、大阪で英語を習いました。その後、慶応義塾に入学し、17歳で卒業し教師をしていましたが、政治家になりたいと考え、勉強のために留学を望んでいました。福沢の力によりロンドンへの留学が実現し、20歳から23歳までをロンドンで過ごしたのです。
井上馨との出会い、そして三井へ
この留学から、中上川は近代的な考え方、英国紳士の流儀を学び、その後の人生に生かしました。また、留学中、中上川は海外の経済事情を調査に来ていた井上馨と出会います。井上は中上川を大変気に入り、これは中上川にとって人生を変える出会いとなりました。

井上が参議兼工部卿に就任するとともに井上の紹介で工部省に入り、井上が参議兼外務卿になると、外務省に移りました。そして、26歳で外務省の局長を務めたのです。しかし政変に遭い、外務省での出世を諦め、今度は福沢が創刊した時事新報社の社長兼主筆になります。経営がうまくいき出すと、中上川は次なる目標として、貿易会社の設立を考えました。これは福沢の反対にあい実現しませんでした。

そこへ、新設される山陽鉄道会社社長就任の話が、福沢門下の荘田平五郎から持ち込まれたのです。井上の後押しもあり、中上川は社長に就任します。ところが、思い切った経営方針が株主の反感をかい、社長から格下げになってしまいました。それを知った井上は、ちょうど三井の改革を依頼されていたため、中上川を三井へ推挙することに決めたのです。

明治24年(1819)8月、中上川は、三井銀行、旧三井物産、三井鉱山の各社の理事として三井に席を置くことになりました。
不良貸金の回収と三井の改革
三井銀行は、三野村利左衛門の死後、さまざまな難問を抱えていました。官金を取り扱っているために、重要でない地点に出張所を開き、不良債券も多かったのです。三井銀行は改革を迫られていました。

中上川はまず、慶応義塾出身の有能な人材を採用しました。当時の三井銀行の幹部職員は、三井組時代からの手代たちでした。中上川は人材の交替を図ったのです。集められた人たちは、朝吹英二、波多野承五郎、柳荘太郎、日比翁助、藤山雷太、武藤山治、池田成彬、藤原銀次郎などで、三井銀行のみならず、その後の三井各社、そして日本の産業界をリードした人物が名を連ねています。中上川は、適材適所に人を配し、実力主義に徹し、優秀な人物には驚くほどの高給を支払いました。

中上川の実力は、不良貸金の整理で思う存分発揮されました。最初に行われたのが、東本願寺への100 万円(現在の約50億円)の貸金の回収でした。本山所有の動・不動産は実際には抵当登記が行われていなかったので、中上川は抵当登記を行い、返済できない場合は、所有物を競売することを申し入れたのです。本願寺側はこれにあわてて、180万円もの寄付を集めて三井銀行に返済し、手元に80万円残ったので、中上川は逆に感謝されました。

中上川は困難を乗り越え、次々と不良貸付を回収していきました。また、官金取扱業務は三井銀行の近代化を阻むものであると考え、この業務からの脱却を行いました。

旧三井物産を築いた益田孝が三井の商業化を進めたのに対し、中上川は、三井の工業化を推進しました。中上川は、王子製紙、鐘淵紡績、北海道炭鉱鉄道、芝浦製作所などを傘下にしてしまったのです。

中上川は47歳で亡くなり、三井で活躍したのは10年間でした。しかし、その才知により、三井は大きく前身する力を得たのです。
馬越恭平
医者の家から、実業家人生へ
弘化元年(1844)、岡山県後月郡木之子村で生まれ、生家は4代にわたって医者であったと伝えられています。安政3年(1856)、大阪に出て頼山陽の高弟であった後藤松陰の門下を経て、その当時の豪商、鴻池家の丁稚として実業家人生の第一歩を歩み始めました。

当時、25歳で東京実業界で名前が知られ始めていた益田孝が大阪に商用で来た時、馬越の兄、河野元育の紹介で播磨屋に泊り、そこで馬越と初めて出会ったと伝えられています。益田は播磨屋に滞在中、馬越の商才、胆力などを見抜き、親しく欧州諸国の事情や東京実業界の現状などを話したといいます。また益田は、当時、愛読していた「西国立志編」を読むように勧めました。馬越は後、「私が今日あるのは、「西国立志編」の賜である」とよく語ったと言います。馬越はその後、益田が関与した造幣局の夜学校で英語を学んだあと、益田に頼み込み明治6年(1873)、上京して井上馨の先収会社に入社しました。

先収会社とは、井上馨が官を離れた時に設立した会社で、山口県をはじめ全国各地の米の売買と輸出、鉱山事業の開拓を目的に設立されました。井上自身が総裁に、益田孝が社長に就任しました。後に同社は、明治9年に解散することになり、三野村利左衛門との折衝の結果、三井国産方と合併し、旧三井物産が設立されました。馬越はそのまま旧三井物産に入社し、明治10年に横浜支店長、17年に本社売買方、26年に常務理事、翌27年には初代棉花部長になり、敏腕を振るっていました。
「大日本麦酒」の社長に
当時、明治維新以降の産業の発展で、近代的な設備を持ったビール会社が登場しました。明治20年には、東京に日本麦酒醸造株式会社(後のヱビスビール)、大阪には大阪麦酒株式会社(後のアサヒビール)、そして翌21年には北海道庁から払い下げを受けた札幌麦酒株式会社(後のサッポロビール)が誕生しました。またこの他に、横浜のコープランドビールを引き継いだジャパン・ブルワリーが麒麟ビールの発売を開始しています。このころのビールの価格は、大瓶(換算)で1本14銭だったといわれています。喫茶店のコーヒーは1杯1銭5厘でした。

明治時代は、清酒に対する酒税と地租(土地税)が税金の2本柱で、ビールには税金がかけられていませんでした。しかし明治34年、清国との外交問題などの影響で、軍備増強を目的に「麦酒税」が導入されました。そのため、ビール業界間で競争・再編成の波が起こり、小さい醸造所が姿を消し、日本麦酒、大阪麦酒、札幌麦酒が合併して「大日本麦酒株式会社」が誕生しました。

前身の日本麦酒は、一時期、経営難に陥った時期がありました。三井が大株主だった関係上、当時旧三井物産の理事だった馬越を経営陣に迎え、難局に当たらせることになりました。明治25年5月、三井物産の重役でありながら、請われて日本麦酒の重役に就任しました。馬越自身は、旧三井物産の仕事よりもビール業界での仕事に忙しくなり、結局、旧三井物産を退職。大日本麦酒が誕生した時、社長に就任したというわけです。

その後、馬越時代の大日本麦酒は発展を続け、市場シェアは79%に達し、馬越は「日本のビール王」といわれるまでになりました。 なお、馬越はビール業界だけでなく多くの会社に関係し、明治29年には日本工業倶楽部会長、31年に岡山県選出の衆議院議員になり、40年には勲4等に叙せられています。
益田孝
井上馨と共に旧三井物産の前身「先収会社」を創立
益田孝
(1848〜1938)
旧三井物産の初代社長。嘉永元年(1848)、佐渡島の相川で生まれました。家は代々佐渡の地役人でしたが、父・鷹之助が箱館(現在の函館)奉行所勤務となったため、しばらく箱館に住みました。当時の箱館は、横浜、長崎などとともに開港地として賑わう国際的な都市で、孝は奉行所の教育所で、初めて英語を習いました。

その後再び父の転勤があって、江戸に出た孝は、安政6年(1859)、「支配通弁御用出役」となって麻布善福寺のアメリカ公使館に勤務することになりました。そこで生きた英語を学び、初代公使のハリスに接して大きな影響を受けました。

文久3年(1863)に遺仏使節・池田筑後守の随員となった父・鷹之助の従者として初めて渡欧します。ヨーロッパの進んだ文明、とりわけ、港に整然と並ぶ軍艦の印象が強かったようです。

明治維新後は商売を始め、その才を認められて、アメリカのウォルシュ・ホール商会のクラークに迎えられます。その後、井上馨と知り合い、彼の薦めで大蔵省に入ります。貨幣の切り替えにともなう金貨鋳造に取り組んだ後、井上の下野とともに辞職し、「先収会社」(旧三井物産会社の前身)の創立に参加しました。

この先収会社は、本店を東京に、支店を横浜、大阪、神戸に置き、陸軍省御用として、絨、毛布、武器などを輸入するほか、銅や石炭、紙、米、茶、ロウなどを商っていました。特に山口県の地租引当米の販売を担当するなど、米の売買で大きな利益を収めました。ところが、明治8年(1875)12月、井上馨が元老院議官に任命され、特命副全権弁理大臣として朝鮮に派遣されることになったため、先収会社は閉鎖されることになります。
旧三井物産の開業
こうして旧「三井物産会社」は、明治9年(1876)7月1日、三井銀行と同じ日に開業しました。初代社主は三井武之助高尚と三井養之助高明。社長は、経営の実権を全面的に委任された益田孝、副社長は木村正幹。監査役には三野村利左衛門が就任しました。 日本橋坂本町に本店仮事務所を置き、横浜、大阪、長崎に支店を、三池、兵庫に出張所を設けました。従業員は16名でスタートしました。

同社創設にあたり東京府に提出された「組合約定」によると、その営業内容は、「他人から依頼を受けて物産を売りさばき、あるいは買収して手数料を得る問屋、すなわち欧州でいうエシェント(エージェント)商売」としています。 明治後期には、日本の主要な輸出品であった石炭、米、綿糸、綿布、生糸をはじめ、300 余りに及ぶ品種を扱っていたそうです。明治40年代の年商は約2億円で、当時の日本の貿易総額のほぼ2割を占めていたということです。

益田孝が工部省鉱山寮から払い下げを受けた三池炭鉱の石炭は、旧三井物産が飛躍的発展を遂げた最大の要因といわれています。石炭の市場を上海、香港、シンガポールなどに開拓していきました。明治21年、悲願であった三池炭鉱そのものの入手に成功、翌年の1月に「三池炭鉱社」(三井鉱山の前身)を設立しました。現地には事務長が配属されましたが、初代事務長は、米国マサチューセッツ工科大学で鉱山学を専攻した團琢麿でした。
「鈍翁」(どんのう)という号を持つ風流人
彼は茶人としても大変有名で、質の高い、膨大な茶道具のコレクションを残しています。個人的な楽しみのほか、日本の美術品が海外に流出してしまうのを防ぐ、という目的もあったようです。 また、若い頃から良い字を書き、特に晩年の作は「茶席に掛ける書は、近代のものなら益田鈍翁か松永耳庵」といわれるほどの域に達していたといいます。
團琢磨
14歳で渡米し7年留学
團琢磨
(1858〜1932)
安政5年(1858)8月1日、福岡県に生まれました。福岡藩の武士・神屋宅之丞の4男で、幼名は駒吉でしたが、12歳の時、同藩権大参事・團尚静の養子となりました。

明治4年、14歳の時に、團は旧福岡藩主黒田家より、海外留学生に選ばれ、渡米しました。これは、各藩の大名が海外へ出向くことになった際、福岡藩主長知(ながとも)のお供をしたのです。一緒に選ばれたのが、同藩の金子堅太郎でした。横浜港から同年11月12日に出帆したこの船には、岩倉具視特命全権大使一行、留学生、日本初の女子留学生、旧藩主らが乗船していました。

ボストンに行き、まずライス・グラマー・スクール(小学校)に入学。卒業後、鉱山資源で日本を豊かにしたいという考えから、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学びました。明治11年6月に、同大学を卒業すると、日本に戻りました。留学は7年間にわたったのです。
帰国後、三池鉱山に赴任
いわば鉱山学の泰斗であった團ですが、すぐにはうまくいかなかったのです。福岡県に命じられ、三池炭田と筑豊炭田の調査に出向きましたが、半年は滞在する予定が、設備の悪さや流行病の蔓延で、1週間で中止することになったのです。鉱山学で身を立てるため工務省に就職しようとしましたが、かなわず大坂専門学校助教授となりました。

團と共に留学した金子堅太郎は、ボストンではハーバード大学で法学を学び、帰国後、東京大学予備門で英語を教えた後、元老院の書記官となりました。金子は團より5歳年上で、團とは親友でした。金子は團に東京大学の助教授の職をみつけましたが、科目は星学(天文学)。團は、鉱山学の知識を生かすことを望み、金子を通じて工部卿の佐々木高行に頼み、工部省に出仕し、管轄の三池鉱山に赴任することになったのです。しかし、三池では突然現れた團を快く思わず、團も不愉快な思いをしたようです。

三池炭鉱は、埋蔵量は豊かでも、掘り進むほど水が出るという難点がありました。しかし、当時の日本の技術では、排水は思うようにできません。所長の小林秀和は、團に海外の炭鉱を視察することを命じました。團を海外に追い出す作戦という声も一部にはありましたが、欧米の鉱山を見られるとあって、明治20年10月10日、團は喜んで米国へ旅立ちました。

最新の技術を見るために、欧米の炭鉱を巡った團玖磨は、三池鉱山に戻りました。三池炭鉱は政府の機構改革により、工部省の手を離れ民間に払下げられ、明治22年1月から三井組の経営になりました。三井の大番頭である益田孝は、團が三池に必要な人物であると思い、入札の450 万円の中に團も入っているとし、團を三井三池炭鉱社の三池炭鉱事務長にしたのです。團の人生は、ここから花開くことになります。
三井三池炭坑の発展に尽力
團は、掘るほどに水が出る三池炭鉱に、英国製の世界最大のデーヴィ・ポンプを備えつけることを考えました。驚くべき高価なポンプでしたが、三井の幹部を熱心に説得し、設置したのです。その結果、炭鉱の出水問題は解決し、出炭量も大幅に上がりました。

また、当時、日本の炭鉱では安い賃金で囚人を使っていました。團は、これでは労働意欲がわかず、進歩もないとし、たとえ賃金は高くても一般人を雇い、経験を積ませる方が、将来の生産の増加につながると考え、実行しました。明治26年、三井鉱山合資会社が設立され、翌年、團は同社専務理事となり、三井の全鉱山の管理を任されます。住まいも東京に移りました。

團は、その後も三池のために力を注ぎます。三池の石炭輸送が不便である点に着目し、港湾の建設に踏み切ったのです。予算は400 万円で、三池に築港することで三井の承認を得、明治35年11月に起工。明治41年4月に開港すると、この港から石炭が次々と輸出されるようになりました。

また、北海道炭礦鉄道の経営がうまくいかず、夕張炭鉱ではガス爆発も起こり、それまで同社では名前だけの取締役だった團は、明治42年1月に同社取締役会長となり、経営に乗り出し、機械採炭を進めました。團は、明治43年、三井合名会社社長の三井八郎右衞門(高棟)に随行し、欧米に出かけます。
経済界の任、そして凶弾に倒れる
大正3年8月、團は三井合名会社理事長に就任しました。この年、第一次世界大戦が始まり、日本の産業は伸びていきます。経済団体である日本工業倶楽部の理事長に大正5年5月に就任。大正11年7月には、日本経済連盟の理事長、後に会長となります。日本の経済界を代表する人物となった團は、昭和3年11月に、「男爵」を授けられたのです。

しかし、資本主義の打倒をうたい、三井・三菱などの大財閥を攻撃の対象とする血盟団のメンバーであった菱沼五郎は、團の暗殺を計画。昭和7年3月5日、團は、三井合名会社へ出社するために三井本館へ入ろうとした時、菱沼に撃たれて絶命しました。75歳でした。
池田成彬
アメリカ留学後、三井銀行に入行
これまでの日本銀行総裁には民間出身の総裁が何名かいますが、純粋の都銀出身者ということでは数少ないうちの一人として池田成彬氏があげられています。

慶応3年(1867)に、山形県米沢市で、米沢藩士池田成章の長男として生まれました。その後、明治21年に慶応義塾を卒業後渡米し、同28年にハーバード大学を卒業、同年三井銀行に入行しました。明治9年に日本で最初の私盟会社三井銀行が開業してから21年目のことです。

その後、明治42年の株式会社への改組と同時に常務取締役に就任、それ以降の同氏の手腕について、三井銀行八十年史には、「明治42年(1909)の組織改正から昭和8年(1933)に至るまで、足かけ25年の間、当行の経営を実質的に主宰したのは、池田成彬常務取締役であった。したがって、この四半世紀の当行の歴史には、池田常務の銀行経営に対する意図と方針とが、その中核を貫いて流れているのである」と記述されています。
三井合名会社常務理事に就任し、「ドル買い事件」に対処
「昭和2年金融恐慌以後、金融は緩慢となり、当行は国内での資金運用に悩み、融資を有利に消化するために投資市場を海外にもとめ、英国のポンド証券に多額の資金を放出した。しかるに英国の金本位制停止によって、この資金は回収が不如意となり、かねてこれを見合いとしてドルを売予約していたのを、円資金でドル貨を買い入れて売予約を履行したのであった。この時のドル貨の買い入れが、当時一部の思惑買いと同一視され不当の非難を受けた」(三井銀行八十年史)。これがいわゆる三井銀行の「ドル買い事件」と呼ばれているもので、真相を離れた誤伝によるものです。これに対処すべく、池田成彬が三井合名会社常務理事に就任して諸改革を断行したのは有名な話です。

なお、三井合名会社常務理事に就任するまでの間には、東京手形交換所理事長、三井信託株式会社代表取締役、日本銀行参与などを兼ねています。また、昭和13年5月には第一次近衛内閣の大蔵大臣兼商工大臣を、さらに、内閣参議・枢密顧問官に任ぜられました。
日本銀行の総裁に就任
昭和8年に三井合名会社常務理事に就任した池田成彬氏は、三井家の人々を経営の第一線から退かせて、大規模な社会事業への献金を行いました。そして昭和11年には自らが唱えた定年制に従い三井合名会社常務理事を辞し、穏退しています。その後、昭和12年、当時の蔵相であった結城豊太郎氏から誘われて日本銀行第14代総裁に就任したといわれています。しかし、在任わずか五ヵ月半で病のため辞任することになります。
向井忠晴
旧三井物産に入社し、上海、ロンドンに赴任
明治18年1月26日、東京市に生まれました。父親は多(おおの)忠久といい、忠晴自身は明治20年、向井家に養子縁組しています。ちなみに生家の多(おおの)家の祖先は、「古事記」を編纂した太安万侶だという説があります。

開成中学を経て、明治33年、15歳で現在の一橋大学の前身、東京高等商業学校に入学しました。明治37年、優秀な成績で卒業していますが、在学中はガリ勉タイプではなく、多方面に活躍した活動的な学生のようでした。特にテニス部の正選手として活躍したことを向井自身が晩年に語っています。

明治37年、向井は19歳で旧三井物産に入社しました。この年は日露戦争が始まった年です。当時は戦争景気の影響で、旧三井物産には多くの新入社員が採用され、向井の同級生だけでも49人が入社したそうです。もっとも向井自身は晩年、「(旧)三井物産を選んだのは特に商売が好きだったからではなく、外国に行きたかったから」と入社の動機を旧三井物産編「回想録」の編者に語っています。

向井は入社した年の9月、日露戦争中にもかかわらず上海支店に勘定掛として赴任しました。赴任したその前後に、黄海の海戦、遼陽の会戦などが行われ、戦場では日本軍の勝利が濃厚になった時期です。向井の上海時代は、日露戦争中および戦勝直後だったので、上海支店ではいくらでも仕事があったでしょう。忙しい日々を送ったことは想像に難くありません。向井自身はその後、雑貨掛に転じて、結局同地で6年間過ごすことになります。またこの時代の旧三井物産上海支店は山本条太郎が支店長を務めており、このことは向井の後の人生に大きな影響を及ぼします。

その後、向井は引き続き明治43年にロンドン支店に移り、大正9年9月までの10年間、同支店で勤務します。

向井は、第一次世界大戦直前の「古き、よきヨーロッパ」の最後の時代から大戦後の混乱の時代をロンドン支店で働いたことになります。また上海時代から通算16年間、海外で勤務したことになります。
帰国後、三井財閥の最高位へ
大正9年9月、本店穀肥部長として帰国。しかし大正10年には大連支店長、大正12年にはロンドン支店長に就任するなど、また海外生活を過ごすことになります。そして昭和3年、本店営業部長に就任し、ようやく帰国することになりました。向井が営業部長として帰国した時期は、金融恐慌が起こり、旧三井物産以上の売上高を誇っていた鈴木商店の倒産、そして金輸出解禁が行われるなど、日本経済は激動の時代を迎えました。

また昭和7年3月には三井の総帥の團琢磨が、血盟団に暗殺される事件が起こりました。この事件について向井は後年、「当時は三井財閥のトップの地位にいなかったし、そんな地位につけるとも思わなかったので、別にショックもなかった」と語っています。

しかし向井は順調に昇進します。昭和8年に取締役、翌9年に常務取締役、そして昭和12年には旧三井物産代表取締役(常務取締役)、同14年に取締役会長に就任しています。また昭和15年8月、三井合名が旧三井物産と合併され、三井総元方が設立されると理事に就任。さらに昭和16年には理事長に就任し、旧三井物産、三井総元方、および三井財閥の最高の地位に就きました。向井が三井財閥の指導的地位に就いた年は、太平洋戦争が始まった年に当たっています。向井はその地位からして戦争中、三井財閥の舵取り役を務めなければなりませんでした。
終戦後、大蔵大臣に就任
しかし昭和18年、中国で起こった日本陸軍によるこじつけ事件である「山西事件」が起こると、旧三井物産の常務以上の役員とともに辞任し、終戦を迎えています。終戦後は、昭和20年に貿易庁長官、公職追放を経て、第4次吉田内閣の大蔵大臣を務めました。向井は大蔵大臣就任の理由を「日頃、吉田さんのやることを批判ばかりして、さてお前がやってみろと言われた時、尻込みするのは卑怯だから出てきた(就任した)んだ」と語っています。

蔵相後は、新三井物産編成に関わり、三井同族援助のための商号使用料の基礎づくりをするなど、三井のために働いています。そして昭和57年12月、東京で死去、享年97歳でした。
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