三井史を彩る人々

執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

  • 三井高利
  • 三野村利左衛門
  • 益田孝
  • 馬越恭平
  • 中上川彦次郎
  • 三井八郎右衞門高棟
  • 團琢磨
  • 池田成彬
  • 向井忠晴

三井家の家祖 三井高利(みつい・たかとし)

三井高利夫妻像

三井高利夫妻像(1622〜1694)

商家の8番目の末子
三井グループの歴史の源となる三井家の家祖・三井高利は元和8年 (1622)、伊勢松阪に生まれる。通称は八郎兵衞。父・高俊と妻・殊法には4男4女があり、高利は8番目の末子であった。
武士であった高利の祖父・高安は織田信長に敗れて松阪まで流浪し、子・高俊は刀を捨て、質屋や酒・味噌の商家を営んでいた。高安の官職が越後守であったことから、店は「越後殿の酒屋」と呼ばれる。高俊は商いに関心が薄く、家業は実質的には殊法が取り仕切っていた。商才に優れた殊法は「質流れ」や「薄利多売」など当時では画期的な商法を多く取り入れ、家業を発展させた。後に豪商となる高利の商才も、殊法の影響によるものが大きい。高利は兄たちに続き、14歳で江戸へ出て、長兄・俊次の営む呉服店で奉公する。

江戸進出の機会を待つ
慶安2年 (1649)、母・殊法の世話のため松阪へ帰郷していた重俊が36歳で死去する。俊次から代わりに母の面倒を見てくれるよう頼まれた高利は松阪へ帰国。郷里で豪商の中川氏の長女・かねと結婚し、10男5女をもうける。高利は江戸での資金を元手に金融業にも乗り出して蓄財しつつ、江戸進出の機会を静かに待った。
そして延宝元年 (1673)、52歳の高利は俊次の死を契機に、殊法の許しを得て、江戸本町1丁目に「三井越後屋呉服店」(越後屋) を開業。同時に京都にも仕入れ店を置き、高利は松阪から長男・高平たちに指示を出し、店を切り盛りさせた。

新商法で大繁盛
高利が編み出した画期的商法が「店前(たなさき)売り」「現銀 (金) 掛値なし」などである。当時、呉服店は得意先に見本を持って行き注文を取る「見世物商い」か、商品を得意先で見てもらう「屋敷売り」が一般的であり、得意先は、大名・武家・大きな商家などで、支払いは、6月と12月の二節季払い、または12月のみの極月払いという掛け売りだった。
この方法では、人手も金利もかかるので、当然商品の価格は高く、資金の回転も悪かった。高利はこれを改め、店頭での現金定価取引きを奨励、資金も早く回転し、掛け値もないので、商品を安く売ることが可能となった。また、呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りを断行して庶民の人気を集めた。しかし、同業者からは迫害を受けるようになったため、天和3年 (1683)、店舗を駿河町に移転させ、新たに両替店を開く。高利は両替店を活用した為替でも商才を発揮、江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方を引き受け、江戸・大阪・京都の3都で盛業した。

江戸に身を置かず
高利は「遊芸に気を入申事無之、一生商の道楽」とし、商売以外は興味を持たなかった合理的な人間と評されることもあるが、家族との書簡からは暖かい人柄もうかがえる。
なお、江戸で成功を収めた高利だが、28歳で松阪へ帰郷して以来、再び江戸に下ったという正式な記録は残っていない。越後屋開店に伴い高利が江戸に足を運んだかは定かではないが、子どもたちは父・高利に仕事上の悩みを手紙で相談していたことからも、江戸に身を置くことはなく、松阪にあって、指示を出していたものと思われる。
晩年は京都に住み、元禄7年 (1694)、73歳で死去した。高利一代で築いた財産は7万両以上といわれる。

幕末の三井を救った男 三野村利左衛門(みのむら・りざえもん)

三野村利左衛門

三野村利左衛門
(1821〜1877)

幕府御用金の減免に成功
佐幕か勤皇、どちらにつくか誰もが大局を見極めていた幕末、三井の窮状を救い、幕末維新期の「三井の大番頭」として活躍したのが一介の商人であった三野村利左衛門である。幕府御用金の減額から明治新政府への資金援助、呉服業の分離、三井銀行・旧三井物産の創設など三野村が三井に残した功績は計り知れない。
三野村の出自は正確な史料としては残ってはないが、本人の口述などによると、文政4年(1821)、出羽庄内藩水野家の家臣・関口彦右衛門為芳の3男として生まれたとされる。7歳の時に父が浪人、以来諸国を流浪し、苦難に満ちた少年時代を送った。父の死後は江戸に出て、深川の乾物問屋などを経て、幕末に名を残した勘定奉行・小栗上野介の下へ奉公。後に金平糖の行商で得た資金を元手に両替商を営む。
その頃、三井では度重なる莫大な幕府御用金(献金)の重圧に苦慮しており、御用金を減免・分割せねば経営が立ち行かないほどの状態だった。その金額は元治元年(1864)から慶応2年(1866)の3年間・5回で合計266万両にも及んだ。
三野村の機敏な仕事ぶりは出入りしていた三井両替店の主筋までその名が知られており、勘定奉行の小栗とも知己だったことから三野村は三井家と幕府との交渉役として抜擢される。
三野村は、元勘定組頭・小田信太郎を通じて小栗を説得、嘆願の末、御用金150万両を3分の1の50万両に減額し、さらに18万両に減らした上、3年にわたる分納という大成果を上げることに成功した。
このような交渉が成立した背景には、三井のような大商人に対し過度の御用金を課して弱らせるより、育成して末長く幕府経済の支柱にしようと考えたと思われる。その証拠にこの後、幕府は貿易関税収入の一部を商品担保貸し付けに回すという商務を三井に担当させている。
三井は大元方直属の幕府関係の御用金業務を一手に取り仕切る「三井御用所」を設置、三野村はそこの責任者となる。三井の佐幕から勤皇への方針転換にも大きな役割を果たした。

三井銀行の設立に尽力
時代は明治に移り、三野村は三井の近代金融業の発展に尽くす。その目的は「銀行」の設立であった。「為換座三井組」による貨幣制度改革など明治政府の金融政策面で支えた三井組は三野村の指揮の下、単独での銀行設立を狙うが、当時、大蔵省官僚であった渋沢栄一に反対され、明治6年(1873)、三井・小野両組合作による「第一国立銀行」を発足させる。
それでも三野村は単独設立をあきらめず、小野組が倒産を契機に第一国立銀行から手を引いた後の明治9年(1876)、遂に宿願であった日本初の民間銀行「三井銀行」を開業に導いた。
なお、「バンク」の「銀行」という訳語は渋沢の伝記によれば、「洋行」の「行」の一字に「金」を加え、「金行」とする渋沢の提案に、三野村が「交換(取り扱い)には銀も含む」と答え、「銀行」となったという。この2人の会話が現在の「銀行」の名称を決定したことになる。
「商社」構想も練っていた三野村は井上馨と益田孝が解散させた「先収会社」を引き取り、旧三井物産の創設にも携わった。後に旧三井物産は三井組で国内の諸物産販売を取り扱っていた「三井国産方」と合併した。

「無学の偉人」
だが、華々しい活躍とは裏腹に、三野村は病魔に侵され、三井銀行の開業式典にも出席できず、翌明治10年(1877)、57歳で病没する。
三野村は幼少時代、諸国を流浪したので、文盲に近かったが、無学でありながらも時局の見通しは鋭く、行動力に富み、組織をまとめることのできる傑出した人物であった。三野村を「無学の偉人」と称した渋沢は彼を、「あのくらい学問もしないで、制度について不思議な才能を持っているひとはいない。そしてそれを説明するときに丸をいくつも書く。三野村のまるまると言ったら有名なものだった」と評している。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

旧三井物産の初代社長 益田孝(ますだ・たかし)

益田孝

益田孝
(1848〜1938)

幕府通訳や大蔵官僚の経歴
明治から昭和にかけ、三井財閥の重鎮として数々の功績を残した旧三井物産の初代社長・益田孝。三池鉱山の落札や中外物価新報(現日本経済新聞)を創設した経済人としてだけでなく、茶人「鈍翁」としても名を残している。
益田は嘉永元年(1848)、佐渡島の地役人の子に生まれる。後に父・鷹之助は箱館(函館)奉行所勤務となり、しばらく箱館に住んだ。当時の箱館は、横浜、長崎などとともに開港地として賑わう国際的な都市で、益田は奉行所の教育所で、英語を習った。
その後、江戸に出た益田は、安政6年(1859)、通訳として麻布善福寺のアメリカ公使館に勤務することになった。そこでさらに本場の英語を学び、初代駐日米国公使・ハリスに接して大きな影響を受けたという。
文久3年(1863)、遺仏使節・池田筑後守の随員となった父・鷹之助の従者として初めて渡欧、ヨーロッパの進んだ文明を目の当たりにする。
明治維新後は商売を始め、その才を認められ、アメリカのウォルシュ・ホール商会のクラークに迎えられる。その後、維新の元勲・井上馨と知り合い、彼の勧めでで大蔵省入りし、官僚になるも予算編成を巡って井上や渋沢栄一とともに下野し、井上と「先収会社」を設立。この会社が旧三井物産の前身となる。
この先収会社は、本店を東京に、支店を横浜、大阪、神戸に置き、陸軍省御用として、絨、毛布、武器などを輸入するほか、銅や石炭、紙、米、茶、ロウなどを販売した。ところが、明治8年(1875)12月、総裁の井上馨が元老院議官に任命されたため、先収会社は閉鎖を余儀なくされる。

旧三井物産創設と三池炭鉱落札
失業した益田だが、井上を通じて、三井の大番頭・三野村利左衛門から「貿易商社を興したいから、先収会社の連中を連れてきてもらいたい」と声をかけられる。そして明治9年(1876)、先収会社を前身とする「旧三井物産」が発足。益田は初代社長に就任した。当初、社員は20名足らずであったが、三井組で国内の諸物産販売を取り扱っていた「三井国産方」を合併し、社員は70名以上に拡大した。特に山口県の地租引当米の販売や西南戦争では莫大な利益を収めた。
明治以降、三井財閥を飛躍的に発展させたのが、三池炭鉱の出炭である。
旧三井物産では早くから官営三池炭鉱の石炭の独占販売を行ってきたが、明治21年(1888)、三池炭鉱の民間払い下げが決定し、入札が行われた。政府の指値は400万円という当時としては破天荒な金額であったが、益田は反対する三井銀行を説得。三菱との暗闘の末、三池炭鉱を落札する。
三池炭落札により、三井は銀行、物産に次ぐ御三家の一角「三井鉱山」を設立、また、有能な鉱山技師であった團琢磨も一緒に三井へ招聘した。團は最新の排水ポンプによる湧水問題の解決や三池築港など鉱山事業で手腕を発揮。後に三井合名理事長まで登り詰め、三井の雄となる。

茶人「鈍翁」として余生を
益田の大きな事績のひとつに「中外物価新報」の創設がある。勧商局局長・河瀬秀治から「商業知識を普及する新聞を作れ」と勧められた益田は明治9年、旧三井物産を母体とする日本初の経済新聞「中外物価新報」を創刊。発刊費用は全て益田が私費を投じた。
明治25年(1892)の社長退任後も三井家副顧問や三井合名顧問を務め、三井財閥の多くの改革に携わった。大正3年(1914)のシーメンス事件をきっかけに実権のない相談役となり、三井財閥から引退。
小田原に3万坪の別荘「掃雲臺」を造営し、茶人「鈍翁」として余生を静かに過ごし、昭和13年(1938)、91歳で没した。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

東洋のビール王 馬越恭平(まごし・きょうへい)

馬越恭平

馬越恭平
(1844〜1933)

益田孝との出会い
戦前、国内のビールシェア7割を超える「大日本麦酒」社長に君臨し、「東洋のビール王」と称された馬越恭平。旧三井物産創立からの古参社員であった馬越だが、日本麦酒への出向を機にビール業界再編を主導していくこととなる。
馬越は弘化元年(1844)、岡山県で生まれた。生家は4代にわたって医者であったが、安政3年(1856)、大阪に出て当時の豪商・鴻池家の丁稚として実業家人生の第一歩を歩み始める。
当時、25歳の益田孝が大阪に商用で来た時、馬越の兄の紹介で播磨屋に泊り、そこで馬越と初めて出会ったと伝えられている。益田は播磨屋に滞在中、馬越の商才、胆力などを見抜き、親しく欧州諸国の事情や東京実業界の現状などを話したという。また益田は、当時愛読していた『西国立志編』を読むように勧めた。馬越は後に、「私が今日あるのは、『西国立志編』の賜である」と語ったという。
馬越はその後、益田に頼み込み明治6年(1873)、上京して先収会社に入社、同社の解散を経て新たに設立された旧三井物産社員となる。
馬越は西南戦争の食糧調達で莫大な利益を上げ、社内で出世の階段を登って行く。

ビール大手3社を経営統合
明治24年(1891)、「恵比寿ビール」のブランドを持つ日本麦酒の大株主である旧三井物産は悪化する同社の経営再建を専務である馬越に託す。このとき48歳。馬越は日本初のビヤホール「恵比寿ビヤホール」の開業やブランド名を冠した「恵比寿停車場」(現JR山手線恵比寿駅)を開設。日本麦酒は徐々に経営を立て直していく。だが、ビール業界の競争は激化し、戦国時代の様相を呈していた。この窮状を打開すべく札幌・日本・大阪の3社大合同を終始主導したのが馬越であった。奇しくも同時期に日露戦争が開戦し、大国ロシアとの総力戦の最中に無益な競争はすべきでないという意見にまとまり、3社は基本路線で合意。明治39年(1906)に3大ビール会社の大合同は成立し、馬越は大日本麦酒社長に就任する。

「東洋のビール王」に
旧3社の商標「サッポロ」「ヱビス」「アサヒ」を引き継ぎ、従来通りの銘柄で特約店に供給を始めた大日本麦酒は独占に近い70%以上のシェアを確保し、馬越は昭和8年(1933)に88歳で死去するまで約30年間社長を務め「東洋のビール王」と称されるまでになった。
しかし、馬越が育て上げた大日本麦酒も戦後はGHQの「過度経済力集中排除法」よりサッポロビールとアサヒビールの2社に分割された。「ヱビスビール」の商標はサッポロビールに受け継がれている。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井の革命児 中上川彦次郎(なかみがわ・ひこじろう)

中上川彦次郎

中上川彦次郎
(1854〜1901)

福沢諭吉の甥として
明治期、それまで商業主義であった三井の工業化を推進したのが、中上川彦次郎である。その工業化路線は道半ばで挫折してしまったが、中上川が三井に残した人材や企業群はその後、三井財閥の発展に大いに寄与し、現在の三井グループの工業部門の一翼を担っている。
中上川は安政元年(1854)、豊前中津藩奥平家の藩士・中上川才蔵の長男として生まれた。母親の4歳下の弟は、慶応大学の創始者・福沢諭吉である。叔父・福沢に憧れ洋学に関心を持った中上川は、14歳の時に故郷を離れ、大阪で英語を習い、慶応大学に入学。 卒業後は福沢の力によりロンドンへの留学が実現し、20歳から 23歳までをロンドンで過ごした。この留学中、中上川は海外視察に訪れていた井上馨と出会う。
帰国後は工部省、外務省を経て福沢が創刊した「時事新報」の社長に就任。明治20年(1887)には山陽鉄道の社長となり、日本で初めて新聞への広告掲載や「車掌」という言葉を考案したのも中上川であった。

三井の大改革に着手
ちょうどその頃、三井では銀行業が不振を極め、経営再建が叫ばれていた。偶然にも移動中の列車内で久闊の挨拶を交わした井上と中上川の話は盛り上がり、これがきっかけで井上から三井入りを懇請された中上川はこれを承諾する。中上川の思い切った経営方針は山陽鉄道内で株主の反感を買い、社長から格下げされていた。
こうして明治24年(1891)、井上の推挙により、中上川は三井銀行・旧三井物産・三井鉱山の各理事、三井呉服店調査委員、大元方参事という三井の要職に就き、翌明治25年(1892)、39歳で三井銀行の副長となる。
中上川はまず、慶応大学出身の新聞記者など有能な人材を採用した。当時の三井銀行の幹部職員は、三井組時代からの手代たちで、人材の交替を図った。集められた人たちは、朝吹英二、波多野承五郎、柳荘太郎、日比翁助、藤山雷太、武藤山治、池田成彬、藤原銀次郎などで、三井銀行のみならず、その後の三井各社、そして日本の産業界をリードした人物が名を連ねていた。中上川は、適材適所に人を配し、実力主義に徹して優秀な人物には驚くほどの高給を支払った。
また、中上川の実力は、不良貸金の整理で思う存分発揮された。最初に行われたのが、東本願寺への100 万円(約50億円)の貸金回収だった。本山所有の動・不動産は実際には抵当登記が行われていなかったので、中上川は抵当登記を行い、返済できない場合は所有物を競売することを迫った。これに慌てた本願寺は中上川を「信長以来の仏敵」と抗議したが、結果的に180万円もの寄付を集めて三井銀行に返済し、手元に80万円残ったので中上川は逆に感謝されたという。
中上川は困難を乗り越え、次々と不良貸付を回収。また、官金取扱業務は三井銀行の近代化を阻むものであると考え、この業務からの脱却を行った。
さらに旧三井物産の益田孝が三井の商業化を進めたのに対し、中上川は、三井の工業化を推進、不良債権整理の過程で芝浦製作所、鐘ヶ淵紡績、王子製紙、北海道炭鉱鉄道など、いくつもの工業企業を三井の傘下に収めた。

反対勢力との闘争に敗れる
着々と成果を上げていった中上川の改革だが、やがてその手が旧三井物産に及ぶと益田孝ら反対勢力との対立が激化する。加えて、中上川を招いた井上も想像以上に厳しい中上川のやり方に反感を持つようになった。相談もせず、独断専攻が目立った中上川は井上の勘気を買い、三井内で四面楚歌の状態となる。結果、闘争に敗れた中上川も体を壊し、2年間の闘病の末、明治34年(1901)、48歳の若さでその生涯を終えた。
中上川の独断専行型の改革は多くの軋轢を生んだが、三井の近代化・工業化を図った功績は、後々も受け継がれ、三井財閥飛躍の原動力となったのである。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井財閥を繁栄に導いた 三井八郎右衞門高棟(みつい・はちろうえもん・たかみね)

三井八郎右衞門高棟

三井八郎右衞門高棟
(1857〜1948)

長兄の順養子となり三井の後継者に
三井家の家政改革や持株会社による事業統括など三井財閥の基礎を築いたのが三井総領家第10代当主・三井八郎右衞門高棟である。高棟が君臨した明治から昭和初期にかけては三井が最も繁栄した時代だった。
高棟は安政4年(1857)、三井総領家である北家第8代当主・三井八郎右衞門高福の8男として生まれる。高福には夭折した子を含め10男5女がおり、高棟は13番目の子であった。高棟は6歳のとき、長兄・高朗の順養子となる。三井同族各家では当主が男子に恵まれぬ場合、お互いに養子を迎えることが多く、家督である高朗には子がなく、父子ほど年の離れた末弟である高棟が順養子に選ばれ、この時点で総領家の後継者と決定付けられた。
幼い頃より英語や洋算を学び、明治5年(1872)には銀行業見習いのため三井同族の若手とともにアメリカへ留学。約2年の海外生活を経て、明治9年(1876)、発足したばかりの三井銀行に入行、大阪の豪商・広岡信五郎の養女である貴登と結婚する。

29歳で第10代三井総領家当主
明治18年(1885)、29歳の高棟は養父で実兄の9代当主・高朗から家督を相続し、八郎右衞門の名を襲名、第10代当主となる。以後、引退する昭和8年(1933)まで48年間八郎右衞門を名乗り、三井を発展に導いていく。
三井家当主となった高棟は明治26年(1951)、三井家政改革により誕生した最高議決機関「三井家同族会」の議長となり、同族の財産管理・運用を行う三井元方総長にも就任した。高棟が総領家当主として尽力した事績の一つに「三井家憲」の制定がある。三井家では同族の私財や共有財産などの持分を定めた家則の作成が長年の懸案となっていた。家憲制定は明治19年頃から始められ、「三井の大番頭」である維新の元勲・井上馨の指導の下、何度もの修正を経て明治33年(1900)に完成。三井家財産の共有制度や同族範囲・家格の規定、同族間の訴訟の禁止など10章109条からなる厳しいものだった。
明治35年(1902)には三井発祥の地・日本橋に駿河町三井本館が竣工する。三井直系3社(三井銀行・旧三井物産・三井鉱山)と統括機関の三井元方を収容する大建築は人々の注目を集めた。なお、本館落成の祝賀に三井家は、施療院設立を計画していた東京市に10万円を寄付するが、実行されなかったため、明治39年(1906)、新たに100万円の寄付し、「三井慈善病院」(現三井記念病院)を設立した。

三井財閥の持株会社「三井合名」設立
日露戦争後、順調に発展を続ける三井の課題は三井家同族会の法人化であった。当時、直系会社の資本金は三井11家が全額出資する無限責任制であったため、破綻した場合、共倒れの危険を抱えていた。このため、三井家では事業統括体制を改組し、明治42年(1909)、合名会社であった三井銀行、旧三井物産、三井鉱山を株式会社化した上で、これら直系会社株式を所有する持株会社「三井合名会社」を設立。高棟は業務執行社員社長となり、三井財閥の頂点に位置した。

欧米視察が高棟・團の「名コンビ」生む
三井合名が設立された翌年、54歳の高棟は欧米視察の旅に出る。旧三井物産創業者で三井合名顧問の益田孝は團琢磨を同行者に推薦。マサチューセッツ工科大学鉱山学科卒の團は三井へ払い下げられた三池炭鉱とともに、主任技師として手腕を発揮、最新技術の導入や三池港築港など三井の鉱山事業全体で采配を振るい、三井合名設立時は筆頭参事に就任していた。
明治43年(1910)、團や家族、随行員を含めた8名で7カ月の巡遊に出た高棟は金融、産業、文化、芸術など各分野を精力的に視察し、見聞を広めた。旅を終えた高棟は團を「あれなら誰よりも一番良い」と評価し、後に團は三井合名の理事長に就任、高棟と團は「名コンビ」と称される。

團の暗殺をきっかけに引退
昭和に入ると深刻化する不況を背景に資本主義打倒が叫ばれ、財界巨頭が暗殺の標的となる中、昭和7年(1932)、團は三井本館入口で血盟団の凶弾に倒れた。片腕を失った高棟は嗣子である高公に家督を譲り、48年間にわたる三井総領家当主の座から引退。隠居後は東京の麻布今井町邸から神奈川県大磯の別荘・城山荘に居を移した。弓道や能楽、書、絵画、建築、茶の湯などの多くの文化・芸術に精通する高棟は、昭和11年(1936)には今井町邸内にあった茶室・如庵が国宝指定を受けたのを機に城山荘へ移築させる。そして終戦後の三井家同族会や三井本社の解散などGHQによる財閥解体に心を痛めながら昭和23年(1948)、91歳の生涯を閉じた。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

非業の死を遂げた三井合名理事長 團琢磨(だん・たくま)

團琢磨

團琢磨
(1858〜1932)

不遇の鉱山技師時代
三池炭鉱の払い下げとともに三井が手に入れた人材が鉱山技師の團琢磨である。後に三井合名理事長となり、三井総領家第10代当主・三井八郎右衞門高棟とともに三井財閥を率いていくが、財閥巨頭を狙ったテロによる暗殺という悲劇で、その人生を終えることとなる。
團は安政5年(1858)、福岡藩士・神屋宅之丞の4男として生まれる。12歳で、同藩権大参事・團尚静の養子となり、明治4年(1871)、14歳の時に旧福岡藩主黒田家より海外留学生に選ばれ、渡米。出帆したこの船には、岩倉具視特命全権大使一行のほか、日本初の女子留学生、旧藩主らも乗船していた。
マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ團は明治11年(1878)に7年間の留学生活を終え、帰国した。鉱山学の専門家であった團だが、工部省に採用されず、大阪専門学校で数学、東京帝国大学で天文学などを教えた。團と共に留学し、元老院の書記官となっていた親友で義兄の金子堅太郎は鉱山学の知識を生かすことを望んでいる團の不遇を案じ、工部省への出仕を口利きする。金子の斡旋が実り、團は明治17年(1884)に工部省三池鉱山局に入局、團は湧水問題を解決するため、欧米各国の視察を命じられる。

三池鉱山払い下げで三井へ
團が海外にいる頃、国内では三池鉱山は民間払い下げが決まり、明治21年(1888)、三井組が455万円で落札。ニューヨークでそれを知った團は、自分は失職したものと察し、福岡県の鉱山技師の内定を得る。
ところが、三池鉱山落札に尽力した旧三井物産社長・益田孝はこれに猛反対した。「團抜きで三池に455万円の価値はない。三池の落札価格には團の価値も入っている」と主張し、福岡県庁の2倍の給金で團を招聘した。
こうして、紆余曲折を経て三井入りした團は、新設された「三池炭鉱社」の事務長に就任。明治26年(1893)には三井鉱山合名会社が設立され、専務理事となる。
團は最新の排水ポンプによる湧水問題の解決や三池築港など鉱山事業で手腕を発揮。明治42年(1909)に三井財閥の持株会社・三井合名が設立されると参事に任命され、大正3年(1914)にはシーメンス事件を契機とした改組で三井合名理事長に就任。欧米視察で信頼関係を築いた三井合名社長の三井高棟とともに「名コンビ」と称された。

暗殺の標的に
こうして発展・拡大していった三井財閥も昭和に入ると、金融恐慌やファシズムの台頭により、世論の批判の矢面に立たされる。昭和6年(1931)の「ドル買い事件」はそれに拍車をかけ、政財界のトップが暗殺の標的となった。政界では犬養毅や若槻礼次郎、井上準之助、財界では池田成彬、團琢磨、岩崎小弥太、住友吉左衛門などである。
昭和7年(1932)2月、金解禁の責任者・井上準之助前蔵相が血盟団員・小沼正に暗殺されると、三井財閥にも緊張が走った。
しかし、團は護衛や防弾チョッキなどの自衛策を拒み、三井本館への出入りも裏口の「金門」ではなく、人通りの多い三越側を利用した。
同年3月5日午前11時25分、團の乗った車が三井本館南側・三越寄りの玄関前に着き、階段を上りかけたとき、一青年が横から割り込み、拳銃を團の左胸部に押し当て発射した。銃弾は團の心臓に命中、すぐさま医務室に運ばれ手当てを受けたがまもなく死亡した。享年75。
團の死後、三井財閥は三井高棟の引退や池田成彬の転向施策が取られるが、戦争へ歩み始めた時局の中ではどうすることもできなかった。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

財閥転向に努めた「清貧の人」 池田成彬(いけだ・せいひん)

池田成彬

池田成彬
(1867〜1950)

ハーバード卒の秀才
これまでの日銀総裁には民間出身の総裁は何名かいるが、純粋の都銀出身者ということでは数少ないうちの1人として、池田成彬が挙げられる。
池田は慶応3年(1867)に、山形県米沢市の米沢藩士・池田成章の長男として生まれる。明治21年(1888)、慶応大学を卒業後、渡米し、同28年(1895)にハーバード大学を卒業、同年三井銀行に入行した。後に池田は三井の重鎮で三井銀行副長・中上川彦次郎の女婿となる。
明治42年(1909)、三井財閥の持ち株会社・三井合名の発足に伴い、三井銀行は株式会社化し、その改組と同時に池田は常務取締役に就任する。以降の池田の手腕について、『三井銀行八十年史』には、「明治42年の組織改正から昭和8年に至るまで、足かけ25年の間、当行の経営を実質的に主宰したのは、池田成彬常務取締役であった。従って、この四半世紀の当行の歴史には、池田常務の銀行経営に対する意図と方針が、その中核を貫いて流れているのである」と記述されている。

「ドル買い事件」に対処
昭和2年(1927)の金融恐慌以後、三井銀行は国内での資金運用に悩み、融資を有利に消化するために投資市場を海外に求め、英国のポンド証券に多額の資金を放出した。折悪しく、国内では昭和5年(1930)、当時の浜口雄幸内閣が金輸出の解禁を断行。しかし、金解禁は事実上の経済失策だった。翌年には世界的にも金輸出再禁止の流れとなり、まずイギリスが金輸出禁止を発表した。実行されれば外貨為替は高騰し、円為替は急落する。このとき、三井銀行をはじめ各銀行は一斉にドルを買い、これにより、「ドル買いは国賊」というマスコミの攻撃が始まる。三井の「ドル買い事件」である。
輸出禁止直前まで横浜正金銀行が売った総額は当時の金額で7億6,000万円ともいわれ、三井銀行は2,135万ドル(4,324万円)のドルを買った。ただ、これはイギリスの金輸出禁止に伴い、三井銀行がロンドンに持っていた資金を凍結されるため、決済ができなくなるので、先物約定履行や電力外債利払いに備え、ドル買いを行っただけであった。池田は回顧録で「なんの変哲もない銀行の事務だと思っていた」と述べている。

財閥転向政策を進める
「ドル買い事件」により、世論の財閥批判は一層高まり、池田や三井合名理事長・團琢磨など財閥巨頭はテロの標的とされた。そして昭和7年(1932)、團は三井本館前で血盟団・菱沼五郎に暗殺された。
世論の風当たりに改革を迫られた三井合名は池田など新たな常務理事を迎え、財閥の転向を図った。
池田はまず、「役員は実際に働いている人を選任すべき」とし、三井直系会社の社長・会長に身を置く三井一族を引退させた。総領家当主である三井合名・三井八郎右衞門高公社長の理解を得ての勇断だった。また、国家報恩と大衆との共存共栄を念願し、公共事業に尽くすことを表明。3,000万円を拠出し、「財団法人三井報恩会」を設立した。当時の3,000万円は現在の数千億円にも匹敵する額で、失業対策や風水害対策、研究施設など多岐にわたって、寄付活動を行った。
さらに池田は昭和11年(1936)、三井直系各社に定年制を導入、68歳の池田本人もこの決定に従い、40年の三井生活を辞した。翌年、当時の蔵相であった結城豊太郎から誘われて第14代日銀総裁に就任。しかし、在任わずか5カ月半で病のため辞任することとなる。昭和13年(1938)の近衛文麿内閣では大蔵大臣兼商工大臣を務めた。三井銀行、三井合名の重職を担った池田だが、身辺は質素で、「成彬」(せいひん)ではなく「清貧」とも呼ばれ、引退後は所蔵する書画骨董を売って生計を立てていたほどだった。昭和25年(1950)、死去。享年83。

三井財閥最後の大物 向井忠晴(むかい・ただはる)

向井忠晴

向井忠晴
(1885〜1982)

志望動機は「外国に行きたかった」
昭和初期から戦中にかけて三井財閥は民衆からは財閥批判、軍部からは圧力を受け、窮地に立たされる。逆風の中、旧三井物産のトップとして三井合名の改組を行うなど手腕を発揮し、三井総元方の理事長となったのが向井忠晴である。
向井は明治18年(1885)、東京に生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、明治37年(1904)、19歳で旧三井物産に入社する。入社動機は「外国に行きたかった」という。
この年は日露戦争開戦の年でもあり、後に勃発する第一次世界大戦など戦争景気の影響で旧三井物産が急成長を遂げた時期である。向井は入社後、上海支店に6年間勤務し、その後、ロンドン支店に10年間赴任。第一次世界大戦を目の当たりにする。向井が海外にいた16年間で、旧三井物産の輸出入取扱高は約8倍、外国間貿易の割合も10倍にまで拡大した。

三井合名と旧三井物産を合併
大正9年(1920)にいったん帰国するが、再び海外勤務となり、天津支店長、ロンドン支店長を経て昭和3年(1928)に帰国して本店営業部長に就任する。同年には中国で軍閥・張作霖が関東軍により爆殺され、前年には金融恐慌が起こるなど国内外で不穏な空気が漂い始めていた。さらに財閥批判の声が強まる中で昭和7年(1932)、三井合名理事長の團琢磨が血盟団により暗殺される。このような時勢に向井は旧三井物産の役員から三井財閥の中心人物としての大任を負う事になる。昭和8年(1933)に取締役、翌年に常務取締役、14年(1939)には代表取締役会長に就任する(当時は社長を置かない会長制)。
三井合名は昭和15年(1940)、政府の戦費調達を目的とした大増税案に対抗するため、子会社である旧三井物産と合併。新たに三井傘下事業の統括機関として法人格を持たない「三井総元方」が設立され、向井は総元方理事長に就任、戦時下の三井の舵取り役を任された。

山西事件で全役員が辞任
昭和18年(1943)、軍部の対応に苦慮する旧三井物産を揺るがす大事件が起きた。「山西事件」である。旧三井物産は中国山西省で「軍の作戦妨害」「現地の統制違反」などを問われ、支店長は禁固10年の刑を宣告される。
事件の実態は現地で中国人から家屋を借り上げる際、統制家賃では安すぎるので、家主に内々に物品を渡して埋め合わせをしたに過ぎないが、北支では商人の不正行為が度々起きたので、「一罰百戒」を狙い一番目立つ物産をスケープゴートにしたとされる。向井は飛行機で直ちに現地に赴き、謝罪した。向井は飛行機が大嫌いで戦後も一度も乗らなかったというが、この時ばかりは例外だった。同年、会長の向井をはじめ常務以上の旧三井物産役員は事件の責任を取って、全員辞職せざるを得なかった。同時に向井は総元方も退任し、三井を去った。

戦後は大蔵大臣に
戦後、向井は昭和20年(1945)に貿易庁長官に就任するも公職追放となるが、昭和27年(1952)には旧知の吉田茂首相の指名を受けて、第4次吉田内閣の大蔵大臣となる。政治は合わなかったようで在任期間は7カ月だった。
その後も日本工業倶楽部専務理事や東京倶楽部理事長を務め、昭和57年(1982)に98歳で死去した。
三井不動産の江戸英雄元社長は向井について次のように述べている。「向井氏は三井財閥最後の大物であった。物産首脳を兼ね、三井合名の改組という歴史的大事業を決断された。私は池田(成彬)・向井両氏が敗戦の際に三井におられたら事態は変わっていたのではないかと思い、お2人が三井を離れてしまったことを残念千万に思う」。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。