三井の歴史

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江戸期 〜三井高利の「越後屋」〜

下記コンテンツは「三井史を彩る人々」と併せてご覧ください。

三井史人物集 三井史を彩る人々

越後屋誕生と高利の新商法執筆・監修:三友新聞社

駿河町に移転後の越後屋の印(『三井事業史』より)

駿河町に移転後の越後屋の印(『三井事業史』より)

江戸に下った三井高利は長兄・俊次の下で修行を重ね、その類まれな商才を発揮していく。だが、慶安2年(1649)、母・殊法の面倒を見るため松阪へ帰郷していた重俊が36歳の若さで他界した。

俊次から才腕を忌避されていた高利は、重俊の代わりに母の面倒を見るよう言い含められ、単身、松阪へ帰国する。江戸奉公に出てから14年目、高利28歳のときであった。

郷里で高利は妻・かねを迎え、やがて10男5女もの子宝に恵まれていく。母に孝養を尽くしながら江戸出店の機会を待った高利は、松阪での家業を拡張し、商業に加えて金融業を営み、資金を蓄積していった。

高利は、自分の子どもたちが育つにつれ、15歳になると、男子は江戸の商人の下に送って商売を見習わせた。また、知り合いの中で眼鏡にかなった若者たちも、手代見習いとして江戸に送り込み、江戸で雄飛する日が来るときのための基礎固めを着々と行っていたのである。

高利が松阪に帰って24年目の延宝元年(1673)、長兄・俊次が病死を機に高利は、殊法の許しを得て、宿願であった江戸進出を実行に移す。

高利はすでに52歳の老齢であった。このとき江戸で修行中の息子達は長男・高平は21歳、次男・高富は20歳、3男・高治は17歳に達していた。

高利は息子達に指示し、江戸随一の呉服街である江戸本町1丁目に間口9尺の店を借り受けさせ、「越後屋三井八郎衛門」の暖簾を掲げ、「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業。次いで京都に仕入れ店を開いた。京都の店は高平、江戸の店は高富が管理し、高利は江戸に赴くことなく、松阪にあって采配を振るった。

越後屋の「現銀(金)掛値なし」の看板(画像提供:三井文庫)

越後屋の「現銀(金)掛値なし」の看板(画像提供:三井文庫)

なお、「越後屋」の屋号は松阪の店から受け継いだもの、「八郎右衛門」は高利の字(あざな)である「三井八郎兵衛高利」にちなんで高平が「三井八郎右衛門高平」と名を改めたことによる。この「八郎右衛門」は三井家の名跡として、総領家当主が代々、襲名することとなる。

経験を積んだ息子や人を配し、呉服店を開店させたとはいえ、当時の江戸にはすでに老舗大店が幾店も軒を連ねていた。このような難局に対し、高利は天才的な創意で新機軸の商法を編み出していく。

その代表的な商法が「店前(たなさき)売り」と「現銀(金)掛値なし」である。当時、一流の呉服店では、前もって得意先の注文を聞き、後から品物を持参する見世物商いと、直接商品を得意先に持参して売る屋敷売りが一般的であり、支払いは、盆・暮の二節季払い、または12月のみの極月払いの掛売りが慣習であった。そのため、貸倒れや掛売りの金利がかさむので、商品の値が高く、資金の回転も悪かった。高利はこの制度を廃止し、店前売りに切り替え、商品の値を下げ、正札をつけて定価制による店頭販売での現金取引を奨励した。現金売りによる収入は資金の回転を早め、二節季払いの仕入れ先には数倍活用された。

江戸時代にもてはやされた越後屋の版画(画像提供:三越伊勢丹)

江戸時代にもてはやされた越後屋の版画(画像提供:三越伊勢丹)

もうひとつは呉服業者間では禁じられていた「切り売り」の断行である。当時は一反単位の取引が常識で、どの店も一反から売っていたものを、客の需要に応じて切り売りし、江戸町民の大きな需要を掘り起こした。

このほか、「即座に仕立てて渡す」というイージーオーダーである「仕立て売り」も好評を呼び、越後屋はやがて江戸の町人から「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、1日千両の売り上げを見るほど繁盛した。