三井の歴史

三井広報委員会
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江戸期 〜三井高利の「越後屋」〜

下記コンテンツは「三井史を彩る人々」と併せてご覧ください。

三井史人物集 三井史を彩る人々

三井家の家憲「宗竺遺書」執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫

和綴じで製本された宗竺遺書

和綴じで製本された宗竺遺書

元禄7年(1694)、73歳で没した三井高利は子どもたちを集め、遺言として「一家一本」「身底一致」を申し合わせた。財産は分与するのではなく共有し、次の一代は三井家を分割しない「身底一致」の考えは「兄弟一致」とも言われ、一族が一致協力して事業の発展を目指すように、という高利の強い遺志が感じられる。

また、高利は財産を相続において配分しない代わりに遺産を70という数字で表し、共有財産とした上で兄弟たちの利益の配分比率を決め、財産を元手金に「割り付けておく」という遺書を残した。高利の遺書は「宗寿居士古遺言」と呼ばれる。

高利の遺志を受け継いだ長男・高平はその遺訓を元に享保7年(1722)、新たな戒律「宗竺遺書」を制定する。「宗竺遺書」は高平を中心に兄弟と相談の上作成した三井家の家憲で、同族の処世法、事業上の措置、財産配分率、子孫の教育法など三井家の繁栄を保持するための規約とその尊守が細かく書かれている。「宗竺」とは高平の法名である。

その内容は一族の一致団結から始まり、総領家の地位・権限、養子の扱い、幕府御用、物心信心など約50項目にも及ぶ。

主なものを現代語訳して挙げると次のようなものである。

一、同族の範囲を拡大してはいけない。同族を無制限に拡大すると必ず騒乱が起こる。同族の範囲は本家・連家と限定する。
一、結婚、負債、債務の保証等については必ず同族の協議を経て行わねばならぬ。
一、毎年の収入の一定額を積立金とし、その残りを同族各家に定率に応じて配分する。
一、人は終生働かねばならぬ。理由なくして隠居し、安逸を貪ってはならぬ。
一、大名貸しをしてはならぬ。その回収は困難で、腐れ縁を結んでだんだん深くなると沈没する破目に陥る。やむを得ぬ場合は小額を貸すべし、回収は期待しない方がよい。
一、商売には見切りが大切であって、一時の損失はあっても他日の大損失を招くよりは、ましである。
一、他人を率いる者は業務に精通しなければならぬ。そのためには同族の子弟は丁稚小僧の仕事から見習わせて、習熟するように教育しなければならぬ。
三井高平像

三井高平像

「宗竺遺書」はその後、歴代の三井家により守り継がれ、明治33年(1900)に「三井家憲」として改訂されるまでの200年近くもの間、三井家の精神とされた。

このほか、三井家では家憲のほかに商売上の教訓も明文化しており、総領家3代当主・高房が、「大商人の手本」と称された父・高平の見聞に自らの見識を加え、一族のためにまとめた戒律書「町人考見録」がある。これは商家に実在した良い商人・悪い商人の例を列挙し、商人がしてはいけないこと、すべきことを具体的に教えている。

これら家憲や教訓は、時代の変化による三井家存続の危機を乗り越えさせ、やがて迎える幕末の動乱にも多いに資することとなる。