三井ヒストリー

製紙王と呼ばれ、日本の科学技術発展のための人材育成にも尽力

藤原銀次郎
(1869~1960)

明治から昭和初期における三井財閥の中心人物の一人。三井銀行に入り、富岡製糸所支配人から戦前の旧王子製紙(現・王子ホールディングス、日本製紙)の社長を務め、「製紙王」と呼ばれた。また、日本の科学技術発展を願い、現在の慶應義塾大学理工学部の前身である藤原工業大学や藤原科学財団を設立。数多の社会事業にも力を尽くした。

医学の道から実業の世界へ

藤原銀次郎は明治2年6月17日(1869年7月25日)、信濃国水内郡平柴村(現・長野市平柴)の農家に生まれた。三男二女の末っ子で、父親の藤原茂兵衛は農業のかたわら藍問屋を営み、一帯では一番の財産家であったという。出自が農家で藍を扱っていたというあたり、何やら渋沢栄一と似ている。

家が裕福だったため、少年時代はおだやかな生活環境で成長していった。14~15歳のときには当時の長野町(市制は明治30年から)で漢学を学び、やがて医者になることを条件に16歳で上京する。

しかし上京すると、同郷の先輩で先に上京していた鈴木梅四郎(*1)に勧められ、慶應義塾に入塾する。そこで受けた薫陶は、独立自尊の強い意志を貫き通す士魂商才であった。

「理屈よりは実行、官途に身を立てるよりは実業につくこと」(『世渡り九十年』より)

こうして銀次郎は医者ではなく、実業の道を目指すことになった。

新聞記者を辞めて三井銀行に

慶應義塾を卒業すると、銀次郎は福澤諭吉の勧めで明治23年(1890)に島根県の松江日報に主筆として入社した。ところが、行ってみると同社は人手も資金も不足し、問題山積。経営不振の危機を救うため、銀次郎は思い切って社長を引き受け、独力で経営を始めた。しかし、その経営は惨憺たるもので、あるときは新聞用紙が調達できず、やむなく自身の金時計を質入れしてやっと紙を賄ったことすらあったという。

藤原銀次郎
(藤原銀次郎回顧八十年より、国立国会図書館蔵)

結局経営に行き詰まり、銀次郎は松江日報を辞めて帰京するが、この間の苦境を著書『福澤諭吉 人生の言葉』の中で「世の中に貧乏ほど苦しくつらいものはない。世の中は決して子供のときに考えていたほど、のんきな、あまいものではない」と述懐している。

ちょうどその頃、三井の改革と工業化を推進する中上川彦次郎は新人登用を重視しており、銀次郎はその目に留まった。明治28年(1895)、銀次郎は三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。同年、前出の鈴木梅四郎と、後に三井合名筆頭理事になる池田成彬も三井銀行に採用されている。

銀次郎は本店の調査係に配属され、ほどなく大津支店次席に、さらに1年後に深川出張所に転任した。銀次郎は、「本所深川は大商店を擁し、かつ地理的に一般銀行業務を取り扱っても確実に営業をなし得る」と中上川に報告。同意を得て深川支店として営業を開始すると、それまで例のないチラシやビラ散布という宣伝を行った。

当時、預金業務は本店だけだったが、預金と銀行の一般業務を行えるようにして、その結果、瞬く間に預金額が増えていったという。

富岡製糸所の支配人になる

明治30年(1897)、銀次郎は富岡製糸所(*2)の支配人として赴任した。現在世界遺産登録されている同施設は、生糸輸出と産業振興のために明治政府によって計画が進められた製糸工場で、明治26年(1893)に三井に払い下げられた。官営のときから従業員が1500人を超すほどの規模の大工場で、その支配人に当時27歳という若さの銀次郎が抜擢されたのだから、本人も驚いたらしい。

富岡製糸所は、その始まりにおいて士族の失業救済の意味合いもあり、政府は士族の娘を優先的に採用していた。しかし彼女らの働きぶりは古くからの士族の格式第一、見栄ばかりで生産能率が上がらず、赤字経営が続いていた。

不合理の是正に送り込まれた銀次郎は、早速賃金の日給制を廃止して出来高制度にした。すると能力が評価されて給与が上がった者は喜んだが、これまで格式と顔で高給を取っていた多くの女工の給与が下がり、不平不満が爆発した。一時はストライキが起きるほど紛糾したが、銀次郎はその困難を乗り切り、以来、富岡製糸所の成績は向上した。

王子製紙の再建を果たす

この頃、中上川の工業化路線は多方面に進展し、王子製紙、鐘淵紡績、芝浦製作所(現・東芝)などの大企業が三井工業部の管理下にあった。明治31年(1898)、銀次郎は富岡製糸所から王子製紙の臨時支配人となり、翌年に三井物産(明治9年設立の旧三井物産のこと)に入社。上海支店長次席、台湾支店長を務め、明治40年(1907)に木材部長として北海道に赴任した。

しかし銀次郎が旧三井物産にいる間、王子製紙の経営は悪化の一途を辿っており、身内関係にある三井銀行からも融資を拒否されるほどの状態だった。

銀次郎は益田孝と井上馨(三井家最高顧問)の懇請により、王子製紙の難局打開を任されて明治44年(1911)9月に主事として入社、10月に専務となる。

王子製紙に乗り込んだ銀次郎は、まず各工場を独立会計とした。次に各工場の現場に出向いて人物の考査を試み、優秀な人物を抜擢。一技一能に秀でた者ならば地位の如何を問わず引き上げていく方針を採り、社員の奮起を促した。

「人を見出すこと、これが改革の第一歩」(『藤原銀次郎回顧八十年』)と銀次郎は言う。

自主的経営を目指し、業績の良い工場に生産を集中し、利益の出ない工場は廃止した。やがてその経営手腕により業績は好転し、大正9年(1920)9月、専務取締役社長に就任。昭和8年(1933)にはシェア争いをしていた富士製紙と樺太工業との合併を果たし、王子製紙は日本の製紙シェア80%強を占める大製紙会社となった。銀次郎は昭和13年6月まで王子製紙を率い、いつしか「製紙王」と呼ばれるようになる。

また、銀次郎は製紙業界に身を置きながらも経済情勢の悪化から経営危機となった電気化学工業(現・デンカ)の再建のため、昭和2年(1927)10月に会長に就任。合理化を徹底して経営を回復させ、昭和8年6月まで同社の会長を務めた。

なお、王子製紙社長でいた間の昭和4年(1929)に貴族院議員に勅任されている。

日本の科学技術発展を願う

昭和13年(1938)12月、銀次郎は王子製紙社長を勇退し、会長に就任。翌年、神奈川県日吉に私財800万円(*3)を投じて「藤原工業大学」を設立した。銀次郎は実業家として活躍するだけでなく、日本が世界トップクラスの科学技術の国になることを願い、優秀な技術者や科学者の育成にも力を尽くしたのである。同大学は後に慶應義塾に寄付され、慶應義塾大学工学部(現・慶應義塾大学理工学部)となった。

藤原工業大学(藤原工業大学概要/昭和14年6月より、国立国会図書館蔵)

その後、昭和15年(1940)に米内光政内閣の商工大臣に就任。戦時中に東條内閣の国務大臣、小磯内閣で軍需大臣を務めたことからA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されたが、間もなく不起訴。昭和26年(1951)に公職追放解除となった。

晩年、銀次郎は数え90歳を記念して私財1億円を寄付し、昭和34年(1959)に「財団法人(現・公益財団法人) 藤原科学財団」を設立した。同財団は、科学技術の発展に貢献した日本国籍の科学者に「藤原賞」を贈呈。その受賞者には、2002年ノーベル物理学賞受賞の小柴昌俊、2014年ノーベル物理学賞受賞の赤﨑勇、2015年ノーベル生理学・医学賞に輝いた大村智ら錚々たるメンバーが名を連ねている。

昭和35年(1960)3月17日、脳軟化症で死去。享年91。勲一等旭日大綬章が追贈された。

  1. 鈴木梅四郎
    明治~昭和期の実業家、政治家、社会運動家。慶應義塾を卒業後、時事新報から横浜貿易新報社社長を経て三井銀行に入行。横浜・神戸支店長を務めた後に王子製紙に移り、専務として苫小牧工場の建設に尽力。王子製紙退社後は医療の社会化運動の先駆的役割を担い、育英事業にも功績を残した→本文へ
  2. 富岡製糸所
    現在の富岡製糸場は時代によりたびたび名称が変更されている。三井が経営していた時期は「富岡製糸所」→本文へ
  3. 私財800万円
    現在の価値で280億円ともいわれる→本文へ
和暦(西暦) 出来事
明治2年(1869) 6月17日、信濃国水内郡平柴村に誕生
明治18年(1885) 上京。慶應義塾正科に入塾
明治22年(1889) 慶應義塾卒。翌年、松江日報に主筆で入社
明治25年(1892) 由井禄子と結婚
明治28年(1895) 三井銀行入行
明治30年(1897) 富岡製糸所支配人に就任
明治31年(1898) 王子製紙臨時支配人に就任
明治32年(1899) 旧三井物産に入社
明治44年(1911) 王子製紙専務に就任
大正9年(1920) 王子製紙専務取締役社長に就任
昭和2年(1927) 10月、電気化学工業会長に就任
昭和3年(1928) 11月10日、勲三等瑞宝章を受ける
昭和4年(1929) 貴族院勅選議員に勅任される
昭和8年(1933) 王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社合併を実現。社長に就任
昭和13年(1938) 王子製紙社長を勇退し、会長に
昭和14年(1939) 私財800万円を投じて藤原工業大学を設立
昭和15年(1940) 米内光政内閣の商工大臣に就任
昭和16年(1941) 産業設備営団総裁
昭和17年(1942) 海軍軍政顧問、内閣顧問
昭和18年(1943) 東條英機内閣の国務大臣に就任
昭和19年(1944) 小磯國昭内閣にて軍需大臣。藤原工業大学を慶應義塾大学に寄付
昭和34年(1959) 財団法人藤原科学財団を設立。同財団に1億円を寄付し、藤原賞を設ける
昭和35年(1960) 3月17日、死去。
  • 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.51|2021 Summer より

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