三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

偉大な創業者の後、
三井を発展させた後継者たち

高利の事業を支えた
子どもたち(前編)

三井家業のベースは、三井高利(たかとし)という天才商人によって築き上げられた。しかし江戸期における三井家のその後の繁栄を語るとき、高利の指示によく従い、また没後も遺志を継いで事業を継承・拡大していった高利の子どもや孫たちの存在は外せない。
高利は多くの子をもうけたが、特に高利とともに三井越後屋の創業に関わり、その発展に尽力した主な兄弟たちに光を当てていく。

一代で成した財を子孫が代々維持していくのは通常なかなか難しい。多くの家が累代で財を分散させてしまうのに対し、三井家はそれをさらに拡大し、一族は長期にわたって繁栄を享受していった。

実は、それは初代・高利とともに三井越後屋を創業した2代目以降の才覚によるところも大きい。三井越後屋の始まりにおいて、高利の天才性ばかりが注目されるが、それを支えた子どもたちもまた優れた商人だった。

彼らは皆、若年のときから江戸に奉公に出て商売人としての修業を積み、後に三井家の家業発展という目標に向かって父子ともども団結して突き進んでいった。それぞれが実直に商売に励み、高利没後は後世につなげていく組織としての盤石の仕組みをつくり上げたことも特筆できよう。

よく知られているように高利は大変な子だくさんで、11男5女をもうけていた。男子の多くは何らかの形で三井家の家業に携わっていたが、なかでも長男高平(たかひら)、次男高富(たかとみ)、3男高治(たかはる)、4男高伴(たかとも)は江戸や京都の店、また幕府との関係において中心的な役割を担っていた。高利没後、家長として三井家の象徴的な立場にあった高平をはじめ、主だった兄弟たちの人物像や家業における役割などについて記してみよう。

【三井高平】(1653〜1737)

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三井高平
三井高利の長男として、高利没後に三井を率いた晩年の姿。高利・高平の嫡系である北家は総領家とも呼ばれ、三井の中心的存在として常に重きをなした。これは元の絵を、北家10代・三井高棟(たかみね)が模写したもの

承応2年(1653)、高利の長男として松坂で生まれた。幼名は長四郎という。父高利がそうであったように、15歳で江戸に行って商売の修業を積んだ。

18歳で八郎右衞門を名乗り、20歳(延宝元年/1673)になると高利に江戸での呉服店の開店を願い出た。江戸での開業は高利の悲願であり、高利は高平にそのタイミングをうかがうよう含めていたのだろう。機は熟したと見た高平が松坂に報告し、それで三井越後屋呉服店が江戸本町に創業されたというわけである。資本金は高利・高平・高富が共同で出資しており、まさに一家の総力を挙げた創業といえる。

越後屋における高平の当初の役割は、京都店での仕入であった。『商売記』によれば、仕入値はよく吟味して下値で買い付け、また借金の利息や為替の手数料なども可能な限り安くさせたという。高利はかなり積極的な仕入指示などをしていたというが、一方で買い付けの現場にいる高平は慎重かつ緻密に行動し、その両者の相反する要素がうまく噛み合って事業発展の原動力となった。温厚で実直な性格は、商人仲間からの信頼も厚かったといわれる。

延宝5年(1677)、高平は一旦松坂に帰り、妻かねを娶(めと)った。結婚から7年後に長男高房(たかふさ)が誕生するが、女子3人を早くに失うなど子にはあまり恵まれていない。

貞享4年(1687)、幕府呉服御用を引き受け、これを機に名を八郎兵衛と改める。また元禄4年(1691)には御為替御用を仰せつけられている。高平はこの幕府の御用のため江戸と京都を隔年で往復していた。

当時、妻かねは松坂にいたといわれ、高平は現代流にいうならば単身赴任で京都に在住し、別々の生活であった。当時の制度では居住地を勝手に変えることができないため、高平は元禄4年(1691)に松坂を管轄する紀州徳川家に京都移転願いを届け出ている。翌年、それが認められると松坂から家族を呼び寄せ、すでに買い入れていた油小路通二条下ル町の屋敷に居住した。ここは後にも三井総領家(北家)の居住地として、明治初期まで存続することになる。

隠居したのは元禄15年(1702)、49歳の頃とみられている。隠居後は生活の比重を趣味に置き、御用は息子の高房と弟の高久(たかひさ)へ、そして三井全体の指揮については、すぐ下の弟の高富に委ねた。

その後の高平の重要な業績のひとつに『宗竺(そうちく)遺書』がある。宗竺とは高平の法名で、高平が古希の年に遺言の形で整理してまとめたものである。

そこに語られている基本方針は一族の一致協力であり、そのために各人の自制と謙虚、また勤勉を求めている。また、相続や財産の分配、一族の女子に関すること、信仰に関することなど50項目に及ぶ具体的な内容が記されている。

『宗竺遺書』に示された規定は、明治42年(1909)に三井合名会社が設立されるまで、約200年にわたって三井家の事業に貫かれた。

元文2年(1737)没。享年84歳と兄弟の中では最も長寿であった。

【三井高富】(1654〜1709)

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高富草案(たかとみそうあん)
宝永4年(1707)頃に作成された、高富による家法の草案。高利の祖父・高安以来の三井家の系譜や、事業の方針、財産の共有など多岐にわたる内容が記されている。「宗竺遺書」はこの草案をベースに発展させたもの。掲載した箇所など、一部に高平が記した部分もある。上記の部分では、高平が自分の隠居後に三井の指揮を高富に任せたところ、見事に人を差配して商売を繁盛させ、大きな功を挙げたとして子孫に知らせるために記した、と弟を高く評価している。

承応3年(1654)、高平が生まれた翌年に次男として同じく松坂に生まれる。幼名は長五郎。兄同様、15歳で江戸に奉公に出て商売の修業を始め、18歳で名を次郎右衛門に改めた。

三井越後屋を開業した際には、高平が京都店を取り仕切っていたのに対し、高富は主に江戸店の責任者として販売面を担当。アイデアに優れ、さまざまな新商法を導入した。三井越後屋のキャッチフレーズともいえる「現金掛け値なし」(高利の指示による現金売り)を導入し、実行したのも高富といわれる。

広い客層の支持を受け、あまりにも急成長したために同業者から嫉妬による数々の妨害を受けたが、駿河町に店舗を移転するなどして窮地を脱している。江戸店の運営は、父高利や兄高平の指揮の下というより、高富自身のかなり主体的な判断によって行われていたようである。

天和2年(1682)に結婚、妻かなを迎えた。高富とかなとの間に子はなく、高利の遺書に従い10男の高春(たかはる)を養子にする。後に高春は一家(後の小石川家)を立てることになり、同じく養子としていた11男の高勝(たかかつ)に家(伊皿子家)を継がせている。

高富は一時期八郎兵衛を名乗ったが、貞享4年(1687)から高平に代わって八郎右衞門を名乗るようになった。

高富自身の回顧によれば、三井越後屋の開業とともに江戸に常駐していたが、36歳(元禄2年/1689)の頃に大病を患い、しばらく商売の一線から遠ざかっていた。仕事への復帰は元禄8年(1695)前後といわれ、このときには江戸ではなく京都にいたとされている。

高平が隠居するにあたっては、その後を任され京都で事業を指揮していった。高富はプライドが高く気宇壮大で、自分が指揮を執るからには三井を「天下一」にする、と豪語していたという。また有能な人物を抜擢して重役とするという人を見る目にも優れるなど、豊かな才能で、言葉通りに三井の事業を拡大させていく。

高富はまた、高利亡き後に三井家事業の結束を固めるためのさまざまなプランを考え、規則制定などのアイデアを創出している。商才に優れていたというだけでなく、このことから組織を設計する上での才能にも恵まれていたことがうかがい知れる。

没したのは宝永6年(1709)で、まだ54歳という若さであった。没後は3男高治、4男高伴が高富の代わりを務め、三井の家業を盛り立てていった。

写真提供:公益財団法人 三井文庫

(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.35|2017 Summer より)