三井の歴史

三井広報委員会
活動紹介パンフレット (4.4MB)
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コラム「三井を読む」

教育や文化、
女性の地位向上に貢献

三井と女性たちの
活躍(後編)

前半では、三井のルーツである三井越後屋の創業時代に活躍した、三井高利の母・殊法 (しゅほう)と妻のかねを紹介した。今回の後編は、明治以降に教育や文化、また女性の地位向上のために力を尽くした三井の女性たちを紹介する。

日本女子大学校設立を支援

広岡 浅子

広岡 浅子

三井 寿天子

三井 寿天子
『雪の香』より

広岡浅子−嘉永2年(1849)〜大正8年(1919)
三井寿天子(すてこ)−慶応元年(1865)〜昭和16年(1941)

NHKの連続テレビ小説『あさが来た』のヒロイン白岡あさは、三井家出身の広岡浅子がモデルであった。波乱のなかにも行動力にあふれた生涯が描かれており、毎回楽しみにしていた方も多いことだろう。

広岡浅子は小石川三井家6代高益(たかます)の娘で、大阪の豪商・加島屋(かじまや)に嫁いだことで広岡姓となった。炭鉱経営や保険事業を行うなど、明治・大正期の女性としては希有な実業家といえるが、同時に、女子の教育環境を向上させたという点でも評価を得ている。その浅子の女子教育に関わる活動を強力に支援していたのが、三井寿天子と夫の高景(たかかげ)であった。

寿天子は慶応元年(1865)、大阪の有力な両替商の家に生まれ、明治15年(1882)に小石川家8代高景に嫁いでいる。浅子が教育者である成瀬仁蔵(なるせじんぞう)の理念に賛同し、女子大学校を創設するために小石川家に援助を求めると、寿天子と高景はその申し出を快諾。5万円の寄付に加え、目白に所有する5500坪の敷地を三井家から提供し、明治34年(1901)、同地に日本女子大学校が開校された。高景は大学校の評議員となり、夫妻はその後も軽井沢の土地を提供するなど、支援を続けた。また、女子大では開校後ほどなく生涯学習を目的とした同窓会組織の桜楓(おうふう)会が発足しているが、寿天子は匿名で桜楓会館を建設して寄付し、桜楓会に設けられた託児所にも援助をし続けていたという。

寿天子の性格は温厚篤実、控えめだが信念を持ち、質素ななかに高い気品があふれる、という評価が伝えられている。高景夫妻の2人の娘は、日本女子大を卒業している。

日本女子ゴルファーのさきがけ

三井栄子(さきこ)−明治28年(1895)〜昭和52年(1977)

日本に初めてゴルフ場が誕生したのは明治34年(1901)。神戸の六甲山で、最初はたったの4ホールであった。大正から戦前の昭和にかけて、ゴルフをする女性などごく稀な存在だった時代に、三井栄子は女性ゴルファーのさきがけとして名前を残している。

明治28年(1895)、旧岸和田藩主の岡部家に生まれた栄子は、大正4年(1915)、本村町三井家、2代弁蔵(べんぞう)に嫁ぐと、旧三井物産に勤務する弁蔵のポートランド赴任に伴って渡米。その後、夫の転勤とともに長く欧米に滞在し、米国や英国でゴルフの基礎を学んだ。帰国後には東京婦人ゴルフ倶楽部の創立において中心的な役割を果たしている。

当時、日本にゴルフの女子プロはおらず、アマチュアでも女子の大会は存在しなかった。唯一、関東関西対抗戦が開催されており、それが女性ゴルファーの実力を示せる場だったのである。栄子は大正15年(1926)から昭和12年(1937)の間、この東西対抗戦で実力ナンバーワンプレーヤーといわれた。

こんなエピソードもある。昭和5年(1930)、日本ゴルフ協会が当時アメリカの代表的な名ゴルファーであったウォルター・ヘーゲンを招き、東京ゴルフ倶楽部駒沢コースでエキシビションマッチを行った。それに出場した栄子は、ハーフ36というスコアをマーク。ヘーゲンは「信じられない」と感動し、愛用のクラブを栄子にプレゼントしたという。

栄子は自らプレーするだけでなく、女子ゴルフの普及に情熱を傾けていた。戦前、戦後を通じて日本女子ゴルフ界を牽引し、日本ゴルフ協会の初代女子委員会委員長も務めた。

啓明学園を創設。日米交換留学推進にも貢献

三井英子(ひでこ)−明治37年(1904)〜平成9年(1997)

三井英子

『三井八郎右衞門高棟傳』より

学校法人啓明学園は、東京都昭島市拝島町にある幼・小・中・高一貫教育の学園。同学園を創立したのが三井英子と夫の高維(たかすみ)であった。

英子は明治37年(1904)、永坂町三井家8代高泰(たかやす)の長女として東京に生まれた。大正13年(1924)に三井総領家(北家)11代高公(たかきみ)の弟の高維と結婚すると、その後は夫の転勤に同伴し、渡英。ロンドンなどで5年間生活した。

滞英中は多くの海外赴任者と交流し、やがて夫妻は彼らの子弟が帰国したときの教育環境について深く思いを致すようになる。帰国後の昭和15年(1940)、東京赤坂台町の自邸内に帰国子女のための啓明学園初等科(小学校)を創設し、翌年には中学部、高等女学部を設置。3年後には、北家が所有する拝島別邸の土地3万坪と建物が寄贈され、中学部が拝島に移って寄宿舎での教育が始められた。

英子は学園の評議員や理事を歴任。一時理事職を離れたが、MRA※1の活動で高維とともに世界各地を巡り、各地の在留邦人帰国後の子女教育に力を尽くしている。昭和45年(1970)より再び理事に就任。高維の急逝後には理事長に就いた。

時代を先取りした施策を実行し、アメリカに「啓明教育基金」を設立。日米交換留学制度推進のための基金募集を行い、やがてこの基金により交換留学が実施されるようになった。平成2年(1990)都知事より学校教育功労賞を、同3年勲五等宝冠章(私学振興功賞)を受けている。

旧三井家拝島別邸

啓明学園北泉寮として姿を留めている
旧三井家拝島別邸

学園内の敷地に残る「北泉寮」は、北家10代高棟(たかみね)が移築した建物で、老朽化により解体の予定であったが、英子の意向で取り止めとなり、平成10年(1998)に国の登録有形文化財※2に、平成22年(2010)には東京都指定有形文化財に指定された。これも英子の功績のひとつだろう。

※1 MRA(Moral Re-Armament/道徳再武装)1921年に発足した国際的な道徳と精神を標榜する運動。

※2 東京都の文化財指定に伴い、国有形文化財からは登録抹消されている。

日本女性史を研究し、三井文庫創設に尽力

三井禮子(れいこ)−明治38年(1905)〜平成元年(1989)

三井禮子

『三井家文化人名録』より

三井禮子は、日本女性史の研究をきっかけに、婦人活動家として戦前戦後を通じ、婦人問題に関するさまざまな取り組みを行った。

禮子は三井高棟の4女として東京に生まれた。大正13年(1924)に女子学習院高等科を卒業し、東京帝国大学文学部聴講生として社会学を学ぶ。同年、永坂町三井家9代高篤(たかあつ)と結婚。昭和4年(1929)に高篤の旧三井物産ニューヨーク支店転勤に同伴し渡米。米国に4年、英国に半年滞在した後に帰国した。

1966年の三井文庫外観

1966年の三井文庫外観

米国滞在中、禮子は婦人解放運動家の石本(加藤)シヅエと知り合った縁から、帰国の翌年に『世界女性史エンサイクロペディア<日本の部>』の編纂事業に参画。石本や女性の地位向上運動を率いた長谷川時雨らとともに日本女性史エンサイクロペディア編纂会を立ち上げた。こうした過程で、禮子は『日本母系時代の研究』などで知られる歴史学者の渡部義通(わたなべよしみち)と知り合い、その指導のもとに唯物史観の研究や、渡部周辺の研究者らとも交流を深めていく。

禮子が編纂に携わった『高棟傳』と論文が掲載されている『三井文庫論叢』

戦後、禮子は民主主義科学者協議会内に婦人問題研究会を発足させたことを皮切りに、共著での『現代女性十二講』や禮子自身の編著による『近代日本の女性』の出版、講演、また昭和38年(1963)には最終責任編者として『現代婦人運動史年表』を刊行するなど旺盛な活動を行っている。

以後は三井文庫(現・公益財団法人 三井文庫)の創設に尽力し、昭和40年(1965)の設立後は嘱託研究員として父・高棟の伝記編纂と三井家史研究に取り組んだ。高棟伝のための作業は心から楽しそうに行っていたという。

写真提供/広岡浅子・三井寿天子・三井英子・三井禮子・三井文庫外観(公益財団法人 三井文庫)、三井栄子(三井高尚氏)、北泉寮(学校法人啓明学園)

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.32|2016 Autumn より)