三井の歴史

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コラム「三井を読む」

三井家商いの始まりを
支えた女性たち

三井と女性たちの
活躍(前編)

長い歴史のなかで三井は数多(あまた)の優れた人材を輩出してきたが、江戸時代から近代においては、そのほとんどが男性である。時代背景として、女性が進出しづらい社会制度が横たわっていたことが大きな理由だが、女性の活躍の記録がないわけではない。そこで、三井との関わりのなかで優れた才を発揮し、今日に伝えられている女性たちの活躍に注目してみたい。まずは三井高利(たかとし)の母・殊法(しゅほう)と妻のかねについて人物像を探る。

殊法―三井家「商いの祖」

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米山梅吉

高利に宛てた殊法の筆蹟(『殊法大姉行状』より/
公益財団法人三井文庫写真提供)

三井家の家祖、三井高利の母は殊法といい、秀吉が小田原城攻めを開始した天正18年(1590)頃に生まれた。伊勢多気郡丹生(にう)村の大商家・永井氏の娘であったという。関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602)に高利の父、高俊(たかとし)に嫁ぎ、松坂にやって来た。殊法という名は法名といわれており、俗名は伝わっていない。

三井家は、もともとは近江源氏の六角氏に仕える武家であり、高利の祖父、三井高安(たかやす)の時代に上洛する信長軍に追われ、伊勢に逃れたといわれる。武士から町人になった高安の子・高俊は松坂に居を構え、酒や味噌を扱う越後屋を営んだ。越後屋の屋号は、よく知られているように高安が越後守を名乗っていたとされているところからきているが、高俊の時代、越後屋は地域における有力な商人となっていた。

そうした環境と、元は武士であったという背景から、高俊はあまり商売に熱心ではなく、もっぱら連歌や俳諧などの趣味に興じるばかりだったという。そのため、店を切り盛りし、実質的に越後屋を支えていたのが妻の殊法であった。

殊法の実家、永井氏が丹生で金融業を営んでいたことから、殊法は優れた商売感覚を持ち合わせていたらしい。倹約家で身内には贅沢を禁じ、自らも華美な衣装を着ることはなかった。

持ち物を捨てることが嫌いで、いらなくなったものは必ず何らかに再利用をするアイデアを凝らす。女性が髪を結ぶ元結の切れ端を侍女に拾わせて小縒にしたり、底の抜けた摺鉢を樋の受筒にしたりと、徹底した廃物利用ぶりであった。

しかし、単なる吝嗇(りんしょく)でなかったことは、次のエピソードが物語っている。

越後屋は、酒や味噌の販売以外にも質屋の業務を行っていたが、殊法は質草を多くするぶん、利息をほかよりも低利にするという経営方針で、売上を伸ばしていった。また、酒や味噌を買いに来た客に女主人である自らお茶やタバコを出し、ときには冷飯を振舞うなどサービス精神にあふれていたという。30両もの大金が入った財布が落ちているのを見つけた際には、近隣に人を走らせて落とし主を捜し、届けさせたという逸話もある。周囲の信用も高かっただろう。こうした殊法の越後屋の運営により、後の三井家事業発展の素地がつくられたといっていい。

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米山梅吉

三井高利夫妻像。柔和な表情に、かねの人柄が窺える(公益財団法人三井文庫所蔵)

殊法は、高俊との間に4男4女をもうけている。息子らは幼いときから日々の殊法の仕事ぶりを身近に見てきたせいか、いずれも商人の道を志してたくましく育った。

長男俊次(としつぐ)や三男重俊(しげとし)は早くから江戸に出て修業を積み、自分の店を構えている。特に、高利が後に類い稀な商才を発揮したのは、末っ子であったために殊法が商人として最も輝いていた時期を長く見て育ったことも理由のひとつだろう。

高利の三男高治(たかはる)が著した『商売記』(享保7年/1722)には、殊法について「若き時分より天性商心(あきないごころ)、始末、費(ついえ)をいとひ、古今めづらしき女人」とある。また、高利の長男高平(たかひら)の『家伝記』(享保7年/1722)にも、「此人女には又無比類、売買に名を得」た人と記されている。

没したのは延宝4年(1676)。息子らの商売の成功、三井家の発展という喜びに満たされ、87歳で人生を終えた。殊法は三井家「商いの祖」と呼ばれている。

ところで、「丸に井桁三」の三井の店章は、殊法が高利の夢に現れて、それまでの店章から変更するよう告げたといわれる。死してなお、三井の事業に大きな影響を与え続けた女性であった。

前出の『家伝記』には、「宗寿(そうじゅ)(高利)らが天下に名を知られるほどの商人になったのは、ひとえに殊法の血を受けたからだ。まことに三井家商いの元祖は殊法である」という主旨の記述もある。

かね―三井高利を支えた内助の功

三井家の菩提寺である京都・真如堂には高利夫妻の墓石が並んでいる

14歳で江戸に出て商売の修業を積んだ高利は、28歳になった慶安2年(1649)、老齢の母への孝養のため一旦松坂に戻り、しばらく郷里で過ごすことになる。このとき、高利が妻として迎えたのが、かねであった。

かねの姿は、高利とともに描かれた肖像画や木像(京都・真如堂に安置)などに残されているが、柔和で慎ましやかな表情が印象的だ。『商売記』によれば、実際に「天性慈悲心深き人」であったという。

かねは伊勢の豪商中川清右衛門の長女として、寛永12年(1635)に江戸に生まれた。10歳で母と死別し、13歳のときに上方にのぼった。結婚したのは15歳のときであり、高利との年齢差は13歳。当時は数え年なので実質14歳、現代ならば中学2年生くらいの少女時代に三井家に嫁いだというわけである。

三井家は裕福だったとはいえ、家庭内には采配を振るう姑の殊法がいる。『家伝記』には「千人に勝れて激しき姑」とあり、嫁いだ身には当初つらいことが色々あったのではないかと推察される。それでもかねは義母によく仕え、殊法にとってはお気に入りの嫁であったようだ。

現代に残っている文献などからかねの日常を見ていくと、倹約を旨とする殊法のもと、質素な生活振りが垣間見えてくる。

かねは高利との間に15人の子どもを産み、男子8人、女子3人を養育した。そのため家計の支出が多く、子どもたちの衣類は極めて質素なものをまかなっていた。自分の衣類を新調することなどはごく稀で、夜具は木綿、衣類は無地類と、華美なものは好まなかった。また、狂言や遊山がましいこと(現代に置き替えれば旅行したり美味しいものを食べに行ったりするような娯楽)には興味を持たず、付き合い程度に留めていたという。自ら朝夕台所に立って料理をし、高利の月代を剃るのもかねが行っていた。

一方、『家伝記』や『商売記』には、多数の使用人を抱える大店舗の夫人としても、その振る舞いは立派であったと記されている。手代や子ども(丁稚)、下男などの世話をよくし、仕事に熱心であればその者の親や兄弟まで気にかける、高利に叱られた者には主人の機嫌を見計らってとりなす、使用人のみならず出入りの人たちとの付き合いにも細かに心を砕くといった具合で、まことに賢夫人としての能力を発揮し、三井家を支えていった。そうした働きから、『家伝記』では、かねは高利とともに「三井家の元祖」と称されている。

姑の殊法は大変信心深かったというが、かねも夫高利とともに神仏への信仰心を深めていき、やがて法体として「寿讃(じゅさん)」を号する。

52歳で初めて自分の店を持ち、江戸・京都・大坂の三都に諸店をつくり、もっぱら商売に奔走する夫には子どもたちの迷惑にならぬよう養生を諭し、子どもたちには身を案じて留守宅の状況を細々と手紙に書き綴っており、そうした書状からもかねの優しい人柄が偲ばれる。

没したのは高利の2年後の元禄9年(1696)。後世の人に「女人の鏡」と讃えられた一生であった。

(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.31|2016 Summer より)