三井の歴史

三井広報委員会
活動紹介パンフレット (4.4MB)
イメージ

コラム「三井を読む」

伝えられた史料から読み解く、
三井のあゆみ

史料でみる三井
(幕末〜財閥形成期編)

江戸期に日本屈指の大店(おおだな)であった三井だが、幕末においては存続の危機に陥っていた。しかし、優れたリーダーの才覚によってその危機を乗り切ると、新時代を迎えてさらなる発展の道を歩み始めていく。今回は、近代における三井の礎が築かれた幕末〜明治の貴重な史料を紹介する。

優れた人材登用による繁栄への歩み

幕末の三井は事業の不振に加え、幕府から預かった資金の運用失敗などで存続も危ぶまれる危機に陥っていたが、外部から登用した三野村利左衛門の働きで救われる。やがて三井の重鎮となった三野村は、維新後も新政府との関係を強め、国の「太政官札」発行事務や新旧貨幣の交換業務を受諾し、後年の三井銀行創立に至る道を拓いた。

三井銀行創立と同時に、益田孝らにより三井物産会社(旧三井物産)が発足。益田は旧三井物産を三井の主要事業に成長させた。また、三井は、官営三池鉱山の払下げを受け、團琢磨の指揮のもと、三井三池炭鉱を日本最大級の炭鉱に発展させた。外部から招聘され、経営が悪化した三井銀行の再建を託された中上川彦次郎は、さまざまな改革で経営を建て直すとともに、工業化路線を推進。現在の三井グループにつながる企業を傘下におさめていった。江戸時代の三井の奉公人は12〜13歳から住み込み、叩き上げられていくのが通例であったが、幕末以降はこうした外部からの優れた人材によって三井は繁栄への舵とりがなされたといってもいい。そうした激動の時代における三井の史料も、公益財団法人三井文庫に保存されている。

  • ①越後屋横浜店(よこはまだな)の設置 安政6年(1859)
    幕末、江戸幕府は二百数十年間続けた鎖国政策を解消し、開国に踏みきった。安政6年(1859)には貿易のために横浜港が開かれ、三井越後屋も横浜店を出店した。
    『神奈川横浜新開港図』は、開港時の華やかな横浜を描いた錦絵で、左手に三井の暖簾印も描かれている。横浜店では呉服販売と貿易に関する公金出納の御用を取り扱っていたが、表面の華やかさとは裏腹に、幕府の預かり金を貸付や投機などに流用し、大欠損を生じさせていたという。呉服販売も不調で、設置3年後には業務を中止した。

    拡大画像をみる

    神奈川横浜新開港図(部分)

    『神奈川横浜新開港図(部分)』

  • ②新政府への協力 慶応3年(1867)
    三井は長く幕府の公金取り扱いを行っていたが、慶応元年(1865)に薩摩藩の御用達となっている。これは動乱の時代に生き残るための、趨勢を見据えた方策といえよう。慶応3年(1867)の冬にはその薩摩藩による倒幕のための軍資金1,000両を調達した。同年、薩長を軸とする新政府が樹立されると、新政府は財政を担う機関として金穀出納所(後の大蔵省)を設置。京都の商人らに拠出を要請し、三井はまず1,000両、翌慶応4年(1868)1月に小野・島田と連名で1万両を献納している。
    『金穀出納所壱万両請取書』は、金穀出納所によるそのときの受領書である。

    拡大画像をみる

    金穀出納所壱万両請取書

    『金穀出納所壱万両請取書(きんこくすいとうしょいちまんりょううけとりしょ)』

  • ③東京に事業の中心を設置 明治4年(1871)

    拡大画像をみる

    大元方「規則」

    『大元方「規則」』

    江戸期の三井は、京都の大元方が呉服部門と金融部門の2つの事業を管理していた。つまり、京都が本社であり事業の中心であったわけだが、新たな時代の到来を機に、その機能を東京に移すことに決定。明治4年(1871)、大元方の臨時会議が開かれ、京都住まいの北家当主三井高福(たかよし)はじめ、大元方役の三井同苗(どうみょう)4人は東京へ移住することとなった。
    『大元方「規則」』には、この会議の決定を踏まえて統括機関である大元方を東京に設置することが明記されている。ただ、東京に大元方を置くが、京都の大元方を廃止するわけではないとも記されている。

  • ④第一国立銀行の開業 明治5年(1872)

    拡大画像をみる

    東京開華名所図絵之内 海運橋第一国立銀行

    『東京開華名所図絵之内 海運橋第一国立銀行』

    明治新政府は、伊藤博文の建議を入れ、アメリカをモデルとした国立銀行(国法にもとづく民間銀行)の設立をはかることになった。三井と小野組はこうした政府の意向により、明治5年(1872)に共同で「三井・小野組合銀行」の設立願書を提出。政府はそれを了承するも、名称を「第一国立銀行」とするように指示した。第一国立銀行は、翌明治6年(1873)に海運橋(現在の日本橋兜町)にて業務を開始した。
    『東京開華名所図絵之内 海運橋第一国立銀行』は、三世広重が描いたその社屋。この建物は、「海運橋三井組ハウス」として明治5年(1872)6月に竣工した。設計・施工は清水建設創業2代目の清水喜助。5階建て、高さ約26mの洋館で、そのモダンな容姿は東京の新名所となっていったが、第一国立銀行の発足に際し、三井組は同ハウスの譲渡を余儀なくされた。
  • ⑤呉服店を分離 明治5年(1872)
    幕末から明治に至る大きな社会変動により、三井の呉服部門の業績は悪化の一途をたどっていた。そうしたことから、当時三井に銀行制度の中心的役割を担わせようと構想していた明治政府は、三井の信用失墜を懸念。呉服業からの撤退を促し、また金融業以外の商売に三井の名前を使わないよう指示する。それを受け、三井は明治5年(1872)、呉服店の分離を受諾。三井と越後屋からそれぞれ一字を取り、「三越家」という架空の一家を創設し、呉服店を譲渡する形が取られた。
    『内番書刺』は、三井同苗や奉公人の書状を綴った大元方の記録。ここに綴られている手紙の中に、呉服部門分離の経緯が詳細に記されている。三越呉服店は明治25年(1892)に三井家の事業として一度回収されるが、明治37年(1904)に再び分離。その後、三越は日本の百貨店の先駆けとなった。

    拡大画像をみる

    内番書刺(ないばんしよさし)

    『内番書刺(ないばんしょさし)』

  • ⑥日本初の私立銀行を設立 明治9年(1876)

    拡大画像をみる

    東京駿河町三井組三階家西洋形之図

    『東京駿河町三井組三階家西洋形之図』

    明治政府は、国立銀行条例の制定により、国の法律に則った民間銀行を多数設立させることで貨幣制度の安定を目論んでいた。しかし、実際に開業したのは第一国立銀行など4行のみであり、条例改訂の必要性に迫られていた。そうしたなか、三井組は東京府に国立銀行条例によらない銀行創立の願書を提出。明治9年(1876)に日本初の私立銀行である「三井銀行」が開業した。
    『東京駿河町三井組三階家西洋形之図』は、2代目歌川国輝の筆によるもので、三井銀行が入っている「駿河町三井組ハウス」を描いたもの。ここは「海運橋三井組ハウス」と同じく2代目清水喜助が設計し、明治7年(1874)に旧呉服店跡地に竣工した。
  • ⑦旧三井物産の設立 明治9年(1876)
    明治政府の重鎮のひとりである井上馨は、野に下っていた一時期、貿易業を行う先収会社を立ち上げていた。その後、井上の政府への復帰に伴い、先収会社は閉鎖されることになったが、三井の三野村利左衛門は先収会社を三井で継承したいと持ちかける。経営責任者は先収会社の創立に参加し、すでに経営実績のある益田孝とすることで井上・三野村・益田の三者間で合意。明治9年(1876)7月に旧三井物産が発足した。
    『三井物産「日記」』は、同社本店の業務日誌で、取引内容や社員の行動、人事、三井銀行や政府・官庁との連絡などを知ることのできる貴重な史料。明治9年(1876)から明治31年(1898)まで全24冊があり、ここに掲げた頁は益田孝自身が記述したもの。

    拡大画像をみる

    三井物産「日記」

    『三井物産「日記」』

    ※法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
  • ⑧三池炭鉱払下げ 明治22年(1889)
    緊縮財政を進める政府は明治21年(1888)、官営の三池鉱山を払下げる決定を下した。払下げは最低400万円の競争入札によるものだが、三池炭の輸出とともに海外支店網を広げていった旧三井物産にとって、落札は不可欠と益田孝は判断。入念な戦略により、三井は455万5,000円でからくも落札に成功する。そして三池炭鉱を中心とする石炭事業は、やがて三井鉱山株式会社として、三井銀行、旧三井物産とともに三井を支える3本の主要な柱のひとつとなっていく。
    『三池炭礦半月報』は、三池炭鉱の各坑で作成された月報をまとめたものと推定されている。各坑の状況に加え、石炭市況やコークスの製造などについても細かく記され、三池炭鉱が三井の発展に大きく寄与していく様子がよくわかる史料である。

    拡大画像をみる

    三池炭礦半月報など

    『三池炭礦半月報』など

  • ⑨工業化路線と挫折
    三井の重役のひとりとなった中上川彦次郎の主導の下、三井は明治27年(1894)に「工業部」を新設。各社所属の工場を買い取り、一括管理するようになった。この時期に買収などで三井の管理下に入った工場は、「富岡製糸所」「新町紡績所」「芝浦製作所(現・東芝)」「大オ製糸所」「前橋紡績所」など。また、三井銀行の投資・融資を通じて「鐘淵紡績」「王子製紙」といった企業の経営権も掌握する。しかし、工業部門はやがて不振となり、明治31年(1898)に工業部は廃止。そして明治34年(1901)、中上川が死去すると、益田孝は工業化路線からの修正を図っていく。富岡製糸所は工業部が廃止された折に三井呉服店に引き継がれる。写真の『富岡製糸所の生糸(明治34年頃)』はその時期に生産されたもの。「飛切上」という上から2番目とされる品質の製品だが、100年以上経った現在でも光沢は失われていない。

    拡大画像をみる

    富岡製糸所の生糸(明治34年頃)

    『富岡製糸所の生糸(明治34年頃)』

  • ⑩三井家憲の制定明治33年(1900)
    三井家と三井の事業を規定するものとして、元祖三井高利の遺志を踏まえたとされる『宗竺遺書』が近世以来受け継がれてきたが、明治も半ばになると、日本の近代化や人心の変化に対応するため、それに代わる規範が必要となってきた。そこで制定されたのが『三井家憲』であった。その必要性を強く主張したのは井上馨で、明治31年(1898)頃から本格的に検討が開始され、明治33年(1900)に109条からなる成文が完成。同族の義務、行動の規制などが定められ、財産共有制を維持する内容となっていた。
    写真の史料は三井家同族会に伝わる原本である。『三井家憲』は終戦後、昭和21年(1946)に三井家同族会で廃止が決議されるまで、幾度かの改訂を経ながら存続した。

    拡大画像をみる

    三井家憲

    『三井家憲』

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.30|2016 Spring より)