三井の歴史

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コラム「三井を読む」

渋沢栄一

近代日本経済の礎を築いた資本主義の父

渋沢栄一と三井(前編)

(しぶさわ えいいち/1840〜1931)

維新後、日本が欧米列強に伍していくためには、あらゆる分野の近代産業を興し育成することが急務であるとし、民間の立場で尽力したのが渋沢栄一であった。渋沢が創立や運営に関わった事業は500有余にのぼり、同じく維新後、財閥としての地位を固めていく三井の事業ともさまざまなつながりを持っていた。
まずは、渋沢の情熱の原点といえる波乱に富んだ前半生に触れる。

益田孝が語る渋沢栄一

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埼玉県深谷市の渋沢栄一生地。埼玉県指定旧跡となっている旧渋沢邸「中の家」(なかんち)が残されている。現存する主屋は明治28年(1895)に栄一の妹夫妻により建てられたもので、栄一は多忙の合間も時間を作り、年に数回はこの家に帰郷していたという

渋沢栄一は、日本近代化の激動の時代に農民、攘夷運動家、幕臣、官僚、実業家とさまざまに立場を変え、現代に至る日本経済の基礎を築いた。情熱的で綿密、なおかつ大変親切で、多くの人に慕われていたという。

同時代を生きた旧三井物産創設者の益田孝も、親しみを込めて述懐する。

「私が渋沢さんに初めてお目に掛かったのは明治5年である。私は先収会社の時分には、渋沢さんにお目に掛かることはあまり頻繁ではなかったが、明治9年三井物産会社(編注・旧三井物産のこと)を創立した以後は、頻繁にお目に掛かり、ほとんどお目に掛からぬ日はないくらいであった。実に親切な人で、一旦世話をすればどこまでも世話をする。渋沢さんは、零細な資金を集めて事業を起そうという主義であった。私も、若い時分から外国人につき外国のことを学んだのであるから、この主義にはむろん大賛成である」(『自序益田孝翁伝』より)

渋沢栄一は天保11年(1840)2月、武蔵国榛沢郡血洗島(はんざわごおりちあらいじま)(現在の埼玉県深谷市)に生まれた。寒村の農家であったが、栄一の父は染色に用いる藍の事業に熱心で、村内で渋沢家は富農であった。

栄一が5歳になると父は倫理、道徳、天文、歴史、文学を易しく説いた三字経を教えはじめる。農民とはいえ父は教養ある人物だった。親戚には漢学者の尾高惇忠(あつただ)(後の富岡製糸場初代場長)がいた。栄一は7歳になると尾高家へ通い、さまざまな書を読み習字の稽古をした。また、従兄に神道無念流の遣い手がいて、その従兄から撃剣を学び、他流試合にも出掛けたという。14〜15歳までは読書、習字、撃剣と文武に明け暮れる毎日であったが、家業である田畑の仕事や藍の商売を手伝うようになると、やがてその面白さに引き込まれていった。

攘夷思想に染まる

多感な栄一の10代は、徳川の治世に変革の風が吹きはじめた時代である。浦賀にペリーが来航したのは嘉永6年(1853)6月、栄一が満13歳のときであった。その後の幕府の外交姿勢をきっかけに、各地で攘夷の機運が湧き起こっていく。栄一の親戚にも攘夷思想の若者がいて、江戸からしばしば友人の志士たちを連れてきた。

学問と商売を通じて世間の道理をわきまえていた栄一は、旧来の制度による政治風習の不条理に疑問を抱いていた。そうしたなかで攘夷主義者と交わり、水戸学などの思想に触れたのである。攘夷への想いはエスカレートし、やがて横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を立てるまでに至った。栄一らは69人の同志を集め、槍や刀、武具を準備したが、計画は未遂に終わる。

御三卿一橋家に仕官

横浜焼き討ちを計画している頃、栄一の従兄である渋沢喜作(後に彰義隊頭取、明治以降は実業家)は、江戸で密かに同志を募るうちに、一橋家用人の平岡円四郎と交際するようになっていた。この平岡との縁が、栄一が次のステージに上がっていく大きな契機となった。

京都では攘夷派の長州が薩摩と会津に一掃されるなど、政治情勢の激変が起きていた。この争乱の善後策を講じるため一橋慶喜(よしのぶ)が上京することになり、平岡は栄一と喜作に同行を求めたのである。

文久3年(1863)11月、2人は平岡の家来という名目で京都に向かった。2人は京都で攘夷の現実と不毛に気付くと、平岡の勧めに従い、正式に一橋家家来となることを決意する。

一橋家では、栄一は藍の商売を通じて培った人付き合いの巧みさ、理財の能力などで徐々に重要な役をこなしていく。歩兵隊編成や財政改革などに力を振るい、当主慶喜からの信頼は厚くなっていった。

パリ万博へ

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パリ万博幕府使節一行。後列左端が栄一。まだ髷を結っている(渋沢史料館所蔵)

慶応2年(1866)、第14代将軍家茂の死去により、一橋慶喜が徳川家を相続すると、栄一も徳川家家臣となり陸軍奉行支配調役に就く。農民出の攘夷運動家だった栄一が、正反対の幕臣になってしまったのだ。まことに人の運命はわからない。

当時、フランスは幕府の内部に接近していた。フランス公使レオン・ロッシュは、翌年(1867)開催されるパリ万博に各国の元首クラスが集うので、日本からも地位のある人物を迎えたいと要請する。そこで、慶喜の弟である水戸の民部大輔、徳川昭武(あきたけ)(数え14歳)が派遣されることに決まり、慶喜は随員のひとりに栄一を指名した。慶喜は単に昭武を儀礼的に派遣するのではなく、同時に4〜5年かけて先進諸国の政事や軍事、産業をじっくり学ばせようと考えていた。そのための世話役として栄一を抜擢したのである。

慶応3年(1867)1月11日、幕府使節一行29人はフランスの商船に乗って横浜を出港。旅の途中、栄一は寄港する度にその地を支配している西欧諸国の力に驚嘆すると同時に、いつか日本も支配されてしまうのではないかという不安をふくらませていった。

後に栄一が駆け足のように日本に数々の産業を興し、近代化を進めていったのは、ある種の恐怖ともいうべきこのときの体験も大きく関係していたのかもしれない。

一刻も早く日本の近代化を

パリに到着後、見聞する巨大な西欧文明は、すべて衝撃の連続であった。

万博が終了すると、一行は欧州巡歴の旅に出発。このときの交通手段は主に鉄道であったが、栄一はその利便性に大きな感銘を受け、日本にも鉄道交通の必要性を痛感した。また、西欧では鉄道をはじめ水運や紡績、鉄の生産など、多額の資本を必要とする商工業のさまざまな大事業が民間で運営されていた。これらは合本組織(株式会社)として社会から広く資金を募ることで運営され、その背後にはバンクという金融システムが機能していることもわかってきた。

「このような西欧の文明と仕組みを一刻も早く取り入れなければ、日本は世界に呑み込まれて滅んでしまうかもしれない」

栄一の気持ちは逸(はやる)ばかりであったが、西欧の科学、産業、軍事、政事、理財の仕組みを知るためには、まず言葉の理解が先決。栄一は、随行員の役目として庶務や経理をこなすかたわら、髷を切り、洋服を身に付け、フランス社会に同化して学びを深めようと試みた。ところがこの頃日本では政変が起き、慶喜は朝廷に大政を奉還。ほどなく新政府の命令が下り、帰国を余儀なくされたのである。

幕府使節一行の欧州滞在は約1年半であった。西欧のさまざまな社会システムを学び取るには短かったが、それでも栄一にとって進歩した文明の素晴らしさと脅威を思い知るには十分すぎる時間であった。

帰国後、栄一は一時期官界に身を置き、国の財政に関わっていくことになる。一方、三井は幕末の動乱期を乗り切り、新政府と金融・財政面で密接な関係を築いていた。次号は、そうしたなかでの三井の首脳・三野村利左衛門との出会い、また栄一が民に下った後の三井との関係について触れていく。

(続く)

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
※ 文中の年月日は旧暦表記です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.27|2015 Summer より)