三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

三井高棟

三井が最も繁栄した時代を生きた総領家当主

三井 高棟

(みつい たかみね/1857〜1948)

三井高棟は三井総領家(北家)の第10代当主。また三井越後屋呉服店の三都本店御用名前であり、後に三井家の代表名前となる「八郎右衞門」としては第15代にあたる。明治から昭和にかけて、日本の近代化への歩みとともに三井家の制度改革を数々成し、財閥体制を盤石にした。また、隠居後は文化的にも多くの足跡を残している。

長兄の養子となって総領家当主へ

三井越後屋の出発から、昭和20年(1945)に財閥解体が議決されるまでの272年に及ぶ長い歴史のなかで、三井家が最も繁栄したのは明治の半ばから昭和初期にかけてであろう。

幕末から維新、そして近代に至る動乱期、それまで大店(おおだな)と呼ばれた多くの商店が衰退消滅していくなかで、三井越後屋は巧みに生き延びた。そして国の近代化の流れを受け止め、組織を変え、明治・大正・昭和とさらなる発展を遂げていった。三井家にとって最も華やかなこの時代に、当主の座にいたのが三井高棟であった。

高棟は三井第8代当主高福(たかよし)の8男として、安政4年(1857)1月14日に京都北家の油小路邸に誕生した。高福は家祖三井高利と同様の子だくさんで、夭折も含めて高利とまったく同じ十男五女をもうけている。高棟はそのなかの13番目の子であり、幼名は五十之助という。

文久3年(1863)、6歳になった五十之助は、長兄である高朗(たかあき)の順養子となって長四郎に改名する。第9代三井家当主として家督を継ぐ高朗には子がいなかったからであり、この時点で立場的に総領家北家の後継者と決定づけられたことになる。なぜ高朗の養子に五十之助が選ばれたのかは不明だが、4年後の慶応3年(1867)、10歳の長四郎は代々の三井家当主がそうであるように、「高」の一字を含む「高棟」の名が与えられ、総領家第10代当主としての座が約束された。

渡米して銀行業務を学ぶ

徳川の時代が終わり、元号が明治に変わった最初の年(1868)、11歳の高棟は京都の本店に出勤することとなった。これは将来三井を率いていくための修業の第一歩でもあった。

三井高棟

特別大礼装姿の高棟
(公益財団法人 三井文庫所蔵)

また明治5年(1872)には井上馨や渋沢栄一のすすめでアメリカへと旅立っていく。渡米の目的は、海外への見聞を広めると同時に銀行業務を勉強するためであった。因みに、明治5年は米国の銀行制度をモデルとした「国立銀行条例」が制定され、翌年には日本初の「第一国立銀行」が発足して初代頭取に渋沢栄一が就いている。

2年間の米国滞在を終えて帰国すると、明治9年(1876)に発足したばかりの三井銀行(現・三井住友銀行)に入行する。この年は、旧三井物産も設立され、近代における三井財閥発展の足場が固められた年でもあった。

それから9年後の明治18年(1885)3月、高棟は養父で実兄の高朗から家督を相続し、総領家当主となり三井八郎右衞門を襲名。以後昭和8年に隠居するまで、48年間にわたって八郎右衞門を名乗った。とはいえ、いきなり三井各事業のトップに君臨したわけではない。2年後の昇進でも、三井銀行の役職は精算課長に過ぎなかった。

高棟・團体制下での発展

総領家当主として高棟が尽力した事績の代表的なものには、三井家憲制定、三井合名設立、理事長制導入などが挙げられよう。

三井家憲は、同族の私財や共有財産の持ち分、また同族の範囲や家格の規定などを厳しく定めたものである。「宗竺(そうちく)遺書」など、三井家には江戸時代から「掟」ともいえる決まりはあったが、時代に合わせた家則の作成は長年の懸案であった。家憲制定の動きは明治23年(1890)に本格的にスタートし、明治33年(1900)に完成した。

三井合名は、三井銀行や旧三井物産、三井鉱山など直系会社を所有する持株会社である。当時、直系会社の資本金は三井11家が全額出資する無限責任制であった。そのため、破綻した場合の共倒れを避けるために、事業統括体制を改組する必要があったのである。三井合名はその目的で設立され、高棟は業務執行社員社長となって、三井の事業におけるトップの座についた。

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茶室如庵での高棟(昭和3年、公益財団法人 三井文庫所蔵)

理事長制の導入については、きっかけにドイツのシーメンス社が日本海軍に贈賄した事件があった(大正3年/1914)。これが後に旧三井物産も絡む軍艦「金剛」受注の贈賄事件に波及したため、旧三井物産を統括する三井合名にも改革が求められ、それまで採用していた顧問制を廃止。新たに理事長制を導入してその初代に團琢磨が就任した。

團は、高棟がコンツェルンの実情と運営を諸外国に学ぶため、明治43年(1910)に7カ月の欧米歴訪の旅に出た際に同行している。これは益田孝の配慮によるもので、この長旅で高棟は團の人柄と能力を知り、二人の密接な関係が築かれることとなった。そして、理事長制の導入によって統括体制はより強固になり、高棟・團の体制下で三井財閥はさらなる発展を続けていく。

大磯城山荘で隠居生活を楽しむ

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高棟が描いた「鶴」。高棟は円山応挙に私淑し、円山派に絵の手ほどきを受けたという(『三井八郎右衞門高棟傳』より)

しかし、昭和に入ると、長引く不況を背景に政財界の重要人物がテロリストに狙われる事件が相次いだ。團もその標的となり、昭和7年(1932)3月、血盟団員の凶弾に倒れ、世を去ってしまう。團を失った高棟は、それまでの業務執行社員制度を廃し、副社長制を導入するなど組織改革を行った上で、翌昭和8年(1933)に継嗣の高公(たかきみ)に当主の座を譲ったのである。

隠居した高棟は、神奈川県大磯にある北家の別荘、城山荘に居を移し、悠々自適の生活に入る(城山荘についてはコラム参照)。もともと多趣味で文化・芸術に精通した高棟は、当主の座にあったときから自らの書や絵画など多くの作品を残しているが、城山荘に住まいを移してからは茶の湯に没頭し、日々稽古に励んでいた。

そして昭和20年(1945)、日本は敗戦を迎える。GHQによる三井家同族会や三井本社の解散命令など、財閥解体に心を痛めていたという。晩年は城山荘の室内で静かに過ごすことが多くなったが、昭和23年(1948)2月5日に脳溢血で倒れ、その4日後に絢爛豪華な一生を終えた。満91歳であった。

Column

高棟が情熱を傾けた建築

三井家は文化・芸術を後援しており、一族には自ら嗜む者も多かった。高棟もさまざまな趣味を楽しんでおり、それは弓、書、絵画、能楽、茶の湯、陶芸、建築、築庭、印章、写真と多岐にわたり、なかでも常に強い関心を示していたのが建築であった。

高棟が生涯に所有した建物は、東京今井町本邸のほかに、京都では油小路邸、木屋町別邸、旧後藤家岩栖院別邸、別荘として箱根小涌谷別荘、拝島別荘、そして晩年を過ごした大磯城山荘がある。

大磯城山荘は建築資材や内部の家具・調度品などに、奈良薬師寺をはじめとする全国の社寺から集めた古材を用い、その再生を図っていることが特徴的だ。38,000坪という広大な敷地内には、本館以外にも大小さまざまな建物が築かれ、国宝に指定された茶室「如庵」と付属施設も今井町本邸から移築された。「如庵」は、もともと織田信長の実弟で千利休の弟子であった織田有楽斎が京都に創建した茶室で、明治41年に売却され、三井家が今井町邸内に移築して保存していたもの。国宝指定は昭和11年で、13年に大磯への移築が完了した。

財閥解体後、この場所はしばらく放置されていたが、現在は神奈川県立大磯城山公園として一般公開されている。

年表

和暦(西暦) 満年齢 出来事
安政4年(1857) 0歳 北家8代高福の8男として誕生。幼名は五十之助
文久3年(1863) 6歳 高福長男の高朗の順養子となり、長四郎に改名
慶応3年(1867) 10歳 高棟の名と花押が決定
明治5年(1872) 15歳 銀行業勉強のために渡米
明治7年(1874) 17歳 米国より帰国
明治9年(1876) 19歳 三井銀行東京本店入行
明治18年(1885) 28歳 家督相続
第15代八郎右衞門襲名
実父高福没
明治26年(1893) 36歳 三井組総長に就任
三井家同族会議長就任
三井組が三井元方と改称し、総長に就任
明治29年(1896) 39歳 男爵を授けられる
三井本館起工式が行われる
明治33年(1900) 43歳 三井家憲を制定
明治42年(1909) 52歳 三井合名会社設立
業務執行社員社長となる
明治43年(1910) 53歳 團琢磨らとともに欧米視察に4月出発、11月帰国
大正3年(1914) 57歳 第一次世界大戦勃発
三井合名、理事長制を実施し、團琢磨就任
昭和7年(1932) 75歳 團琢磨、血盟団員の凶弾に倒れる
昭和8年(1933) 76歳 三井同族会議長、三井合名会社社長を辞任。隠居
昭和20年(1945) 88歳 空襲により今井町邸が全焼
終戦
三井本社、解体声明を出す
昭和23年(1948) 91歳 脳溢血で倒れる
2月9日、城山荘にて没

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.22|2014 Spring より)