三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

三池炭鉱の成り立ちと三井との関わり

三井三池炭鉱史話

(前編)

明治から昭和の中頃まで、日本の近代化推進と富国、あるいは戦後復興を果たすための重要なエネルギー源として、石炭は大きな役割を果たしてきた。なかでも、三井鉱山の経営による三井三池炭鉱は、国内数多(あまた)の炭鉱の中でも最大規模、最大の出炭量を誇っていた。平成9年(1997)に閉山するまでの三池炭鉱、および三井三池炭鉱の近代史に触れてみよう。

燃える石

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老若男女問わず、日本人なら誰もが知っている『炭坑節』。筑豊地方の田川が発祥とも言われているが、歌詞に三池炭鉱が「〜月が出た出た、月が出た、三池炭鉱の上に出た〜」と固有名詞付きで歌われているものも有名。三池はまさに、全国の炭鉱の代名詞的存在であったといえよう。

その三池の石炭が歴史に登場するのは、文明元年(1469)と意外に古い。文明元年といえば室町時代の真っ只中。応仁の乱が拡大しつつあった頃である。

伝承や古文書によれば、稲荷(とうか)村(現在の大牟田市大浦町付近。周辺の三井化学大牟田工場の広大な敷地内には稲荷町という地名が残る)に住む伝治左衛門という農夫が近くの山に夫婦で薪を拾いに出かけ、焚き火をしていたところ、その焚き火の下の石が一緒に燃えていたという。これが三池の石炭の発見である。

その後は、燃える便利な石があるということで、付近の住民が自由に石炭を掘り出し、薪代わりに日常の煮炊きに用いていたのではないかと推測されている。当時、石炭の利用はその程度であり、組織立った採掘の記録も存在しない。

柳川藩による採炭

江戸時代に入ると、伝治左衛門夫婦が石炭を発見した地域は柳川藩の所領となった。そして、最初の発見から250年以上も経った享保6年(1721)に、柳川藩の家老、小野春信によって大がかりな採炭の事業が始められる。当時、石炭は鍛冶や瓦焼き、火薬の製造に加え、製塩や漁業などにも利用され始めていたからである。

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稲荷村の伝治左衛門夫婦が焚き火をし、石炭を発見したときの想像図

『旧柳川藩志』(渡辺村夫/1957)には、次のような記述がある。

「小野氏初め功により三池郡平野村の内山林数百町歩を賜ふ。享保六年十一月春信其地に於て初めて石炭採掘の業を創(はし)む。平野村の南西部は山上分水嶺を以て三池藩の稲荷村と界す」

平野村の山林とは、現在の大牟田市歴木(くぬぎ)周辺と考えられている。大牟田市の北側半分は旧柳川藩領で、小野氏が採炭事業を始めた歴木周辺は、隣接する三池藩領に入り込むような形になっていた。

石炭需要の高まりから、やがて隣の三池藩も採掘を始めるが、この領地境界の微妙な関係が、炭山の領有に問題を残すこととなった。

民間から官業へ

明治に入って廃藩置県が行われると、旧三池藩領にあった鉱山(稲荷山と生山)は、失業対策として三池藩の地元士族に5カ年の期限付きで払い下げられた。ところが、柳川藩時代から採炭事業を継続している小野氏との間で、鉱区の境界をめぐって争いが勃発。それはエスカレートする一方で収拾不能となっていった。

この事態を重く見た工部省は、明治6年(1873)に佐渡金山主任で旧長州萩藩士の小林秀和(後に三井が買収するまでの三池炭鉱責任者)を派遣する。

現地での調査の結果、小林は両者併存による三池炭鉱の経営は困難と判断し、官の買い取りを決定。元三池藩士や小野家に相応の金額を下付すると同時に負債等も清算し、官收を行った。そして明治8年(1875)には三池炭鉱の独立官業方針が決まり、また熊本県や三池県に対して工部省が「三池炭山境界線内における試掘借区などの一切禁止」を通告。これにより三池鉱山は完全に政府独占の事業となった。

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    明治14年5月に作成された、三池鉱山煤田図。石炭はかつて煤炭(ばいたん)と呼ばれ、したがって煤田は炭鉱を意味する。明治初期の三池炭鉱の坑口や石炭積み出しのための道などが描かれた貴重な資料。通常の地図とは逆に、下方が北になっている

旧三井物産と石炭売捌約定書締結

明治の初頭、三池炭鉱は毎年3万t前後の採炭量で推移していた。

しかし、それらのほとんどは国内の製塩所や鉄道、官営の工作所などで使用されるだけであった。外貨を獲得したい明治政府は、この三池の石炭を輸出し、国庫への収入を増やそうと考えた。

そこで、三井の三野村利左衛門や益田孝らに対して、海外販売のための打診が行われた。明治9年(1876)6月のことであり、旧三井物産はまだ設立準備中(同年7月1日設立)であったが、このときに三池炭鉱が後に三井の事業となっていく緒についたといえる。益田孝は次のように言う。

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大牟田市の石炭産業科学館に展示されている、三池炭鉱で採掘された石炭

「伊藤(博文)さんが、今度益田が三井物産会社というものを創立して外国貿易をやるそうだから、三池炭鉱の石炭の販売を益田に引受けさせるがよい、引受けさせるとすれば、けちなことは言わずに原価で払い下げて、どしどしやらせるがよいと言うて、私へ相談があった」(『自叙益田孝翁伝』より)

益田は三池炭鉱の石炭の品質を見るために、2名の部下を連れて自ら三池に赴いた。三池に着くと、早速宿で七輪を借り、石炭を焚いてみたという。

「煙がツーと立つ。窓をみな明け放して、団扇(うちわ)で煽ぐとよく燃えて灰になってしまう。…(中略)…これなら大丈夫、よろしい、引受けようと決心した」(前掲書より)

同年9月16日、鉱山寮(官営の三池炭鉱のこと)と旧三井物産との間で売捌約定書が締結された。三池の石炭販売は一切を旧三井物産に委託し、同社は取扱手数料として販売総額の2.5%を受け取るというものであった。

石炭販売が及ぼした効果

ただし、問題は運搬にあった。三池(大牟田)は有明海に接し、遠浅のため大きな船が接岸できない。旧三井物産が石炭販売に乗り出す前は、小さな船で対岸の島原に運び、そこで瀬戸内海の製塩所行きの船に載せ替えていた。しかし、外国貿易を行うような大きな船は、島原にも入ることができず、輸出港としては適さない。そのため、益田は方々の港を見て歩き、やがて島原半島の先端に口之津という良港を見つけた。

「そこに店を作って、長崎で外国と引合いをすることに腹を決めた」(前掲書より)

後に、三井鉱山の中核事業となる三池炭鉱だが、このときの石炭販売の利益はそれほどのことはなかったという。しかし、この石炭販売が後の三井の発展に大きく寄与した。旧三井物産は三池の石炭輸出がきっかけで、海外に大きく飛躍していった。三井鉱山も三池炭鉱が基礎である。

「大きく考えると、三井全体の発展も三池から起っているというてよい。物産会社もなく、鉱山会社もなく、銀行だけでは、三井は今日のように発展はしておるまい」とは益田翁の述懐である。

(つづく)

三池炭鉱年表

元号(西暦) 出来事
文明元年(1469) 三池郡稲荷村の農夫伝治左衛門夫婦が石炭を発見
享保6年(1721) 柳川藩家老、小野春信が平野山にて採炭開始
文化8年(1811) 伊能忠敬一行、三池郡地方を測量
嘉永6年(1853) 三池藩が生山を開坑
安政4年(1857) 三池藩の生山、柳川藩の平野山両坑の境界争いが始まる
明治4年(1871) 三池藩士族が石炭採掘を願い出る
明治5年(1872) 旧三池藩経営者と小野氏との間で鉱区の境界をめぐる争いが勃発
明治6年(1873) 三池炭鉱が官営となる
明治9年(1876) 明治政府が三井首脳に三池の石炭販売の打診
三池炭鉱と旧三井物産との間で石炭売捌約定書締結
明治10年(1877) 石炭搬出のため、大牟田川河口の航路拡大に着手

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.20|2013 Autumn より)