三井の歴史

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コラム「三井を読む」

占領軍による経済政策の嵐

三井財閥の解体(後編)

財閥解体の目的には日本経済を民主化するという大義名分があるが、第一義的には経済や産業の一極集中を完全に破壊することで、今後日本が強大な軍事力を持てないようにするためであったという。だが、その後の解体政策の苛烈さから見れば、本当に民主化や非軍事化だけが目的であったかという点には疑問の余地もある。米国本国の意向を超えた、GHQ内の一部の暴走といった側面も垣間見えてくる。

財閥解体で何が行われたのか?

4大財閥の解体が正式決定したのは昭和20年(1945)11月6日。そのときの解体案は、概略以下のようなものであった。

◎4大財閥の本拠たる各持株会社(三井の場合は三井本社)は、日本政府が設置する持株整理委員会(HCLC)に一切の所有証券などを移管する。また、傘下企業に対する指令権、管理権を廃絶し、解体を受ける。

◎各持株会社の移管財産に対する弁済は日本政府公債(10年間換価譲渡禁止)で充てる。

◎財閥各家は関係会社の職から退き、各持株会社の重役も資産引き渡し後退陣する、等々。

これらに加え、GHQはさらに財閥家族が所有する一切の動産・不動産の即時売却・贈与・譲渡・移転の禁止、財閥本社だけでなくそれ以外の工業・商業・金融・農業に関する結合の解体計画、私的独占の排除と平等な競争を保障する計画なども盛り込むように要求。財閥の解体と独占禁止に関する徹底した計画の策定と実行を命じた。

敗戦国日本にとってGHQの決定は絶対である。これらの方針に従い、各財閥持株会社は各々解散に向かって手続きを進めていったわけだが、三井本社についていえば、まず直系・準直系会社との関係を絶つとともに、昭和21年(1946)1月17日付で大蔵大臣宛に「会社解散認可申請書」を提出し、2月12日付でその認可を得た。そして9月30日の臨時株主総会の決議により、三井本社は同日解散となった。

財閥家族、三井家の受難

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三井本館(東京・日本橋)は、昭和20年(1945)から1年半ほど進駐軍に接収された。特に500号室と呼ばれる三井合名会社社長室は、GHQの外交局長に使用されていた(撮影/真嶋和隆)

解体政策は、財閥家族に対しても苛烈を極めた。昭和22年(1947)3月13日、三井同族11家をはじめとする10財閥56家が「財閥家族」に指定され、資産が凍結された。その処分については、GHQの代行者たる持株会社整理委員会の承認が必要になったばかりか、生活費までいちいち予算を立てて承認を受け、決算を提出させられた。毎日の行動は監視され、「一般難民以上の生活は許さない」とまでGHQに言われたほどであった。

特に三井家の場合、資産は家業発祥以来の「身底一致(しんだいいっち)」という思想から、時代ごとに大元方や合名など中央組織に集約され、「総有」という形式での運用が一族の決まりであった。近代になってそれらは三井本社で管理されていたため、資産の大部分が持株整理委員会に押収されてしまったのである。

財閥家族指定時に三井11家が所有していた有価証券の合計は、当時の金額で3億9千57万円(財産総額は5億円超といわれる)であり、ほかの財閥家族と比較しても断然トップの資産額を誇っていたが、それらは戦後の株価低落時に売却処分され、社会に広く散逸した。

系統の会社との関係も一切断ち切られ、三井家は延宝元年(1673)以来連綿と築き上げてきた家業と資産のほとんどを失った。解体政策による打撃は各方面に激しく及んだが、最大の被害者は、この財閥家族であろう。

旧三井物産に対する解散命令

戦後2年が経過しようとする昭和22年(1947)7月5日、三井にとっての最大の危機が訪れた。GHQは突如として旧三井物産(と三菱商事)の完全解体を通告してきたのである。物産はすでに持株会社として解体の対象になっていたが、それは業種別に10分割する程度のもので、会社自体を完全に終わらせる話ではなかった。その通告内容は次のようなものであった。

①旧三井物産(と三菱商事)は解散し、直ちに清算を開始し、今後許可なくして商取引、資産の譲渡を禁じる。

②過去10年間、部長以上であった者が共同で新会社をつくったり、2名以上が同じ会社に雇われてはならない。

③100名を超える従業員団体が新会社をつくることを禁じる。

④これまで使用していた事務所(三井本館)の占有を禁じる。

⑤三井物産(と三菱商事)の商号使用を禁じる。

⑥総資産の詳細目録を作成して持株会社整理委員会に提出する。

結局この命令によって資本金1億円、従業員数7,058人を擁する世界最大の貿易商社旧三井物産は一旦消滅し、その後社員らによって大小200以上の新たな会社が発足した。

かかる方針がなぜ急に打ち出されたのかは謎とされている。だが、この年のはじめに貿易公団が設立され、折しも8月1日から民間貿易が再開されようとしていたときの出来事であった。その前に国際貿易で最も強力な商社である旧三井物産(と三菱商事)を叩きつぶし、日本復活の出鼻をくじいておこうという意図にも見え、経済民主化という領域を超えた、日本経済のさらなる骨抜きを狙ったものとも言われる。

商号・商標の使用禁止

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接収された際に、暖房用の配線のために扉の上部が切り取られた。しかし扉の破損を惜しんだ三井の管理者らによって切り取られた扉の木片は保管されており、接収解除後に補修された。今もその補修の痕跡が残っている(撮影/真嶋和隆)

こうした占領軍のやり方はエスカレートする一方で、持株整理委員会は昭和24年(1949)9月に突如、三井、三菱、住友の商号・商標使用禁止を通達してきた。それを昭和25年(1950)7月1日以降7年間にわたって実施するというのである。

三井の商号および「井桁三」の商標は、長年にわたる事業の信用と信頼のシンボルであり、名前を失うことは致命的といえる。各財閥は解体手続きが終わり、株式もすでに民主化されているなか、なぜそれが必要なのか、関係者にとっては青天の霹靂であった。

だが、これは米国本国の方針ではなく、GHQ内部の一部勢力による策動だったと言われている。

「古来いろいろな刑罰があったが、名前を取り上げる刑罰はなかった。これほど非人道的な処置はない」

ある国際法の権威はそう慨嘆したという。この施策からも日本経済のバックボーンを抜き、徹底した弱体化を画策していることが見て取れるが、幸い三井、三菱、住友三社の共闘が功を奏して禁止令は延期され、昭和27年(1952)の講和条約発効とともに撤廃された。

財閥解体諸法例の廃止

敗戦直後の日本は、経済民主化の名のもとに、ほとんど実験場のように扱われていたと思わせるほど戦後数年にわたって吹き荒れた財閥企業や同族に対する嵐は、昭和26年(1951)の財閥解体に関する諸法令の廃止によって集結を見た。同年7月10日からは、財閥同族に加えられた身分上、財産上の制限は撤廃され、財閥追放も解除された。持株会社整理委員会は廃止され、旧三井物産(と三菱商事)解散に関する覚書も廃止された。

旧三井財閥は解体され、確かに消滅した。しかし、三井のDNAは過酷な占領政策をくぐり抜け、今日の三井グループの中に生きている。

終戦から財閥解体までの流れ

昭和年(西暦) 月 日  
20(1945) 8/15 戦争終結
  8/25 三井復興事業株式会社(仮称)設立のための第1回委員会開催
  9/24 占領初期の対日施策として、財閥解体方針が各紙に掲載される
  9/27 三田綱町三井別邸(現・綱町三井倶楽部)にてGHQクレーマー大佐と三井首脳が会見
  10/21 三井11家の同族会議開催。全員一致で財閥解散を議決
  11/6 4大財閥の解体が正式決定
21(1946) 1/17 大蔵大臣宛に三井本社の「会社解散認可申請書」を提出(認可は2月12日)
  7/16 三井同族会が三井家憲の廃止と同会の解散を議決
  9/30 臨時株主総会の決議により三井本社解散
22(1947) 3/13 三井同族11家が財閥家族に指定され、資産凍結される
  7/5 GHQによる旧三井物産完全解体の覚書を受領
24(1949) 9/21 持株会社整理委員会により三井の商号・商標使用禁止が発せられる
26(1951) 7/10 財閥同族に対する身分上、財産上の制限撤廃。持株会社整理委員会の廃止。旧三井物産解散に関する覚え書きの廃止
  9/21 サンフランシスコ講和(平和)条約署名(公布は翌年4月28日)
27(1952) 10/1 三井不動産と三井本社が合併(40対1)。三井本社の清算完了
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TOPICS

昭和52年(1977)に放送された、NHK「日本の戦後」シリーズの第4回「それは晩餐から始まった〜財閥解体への道〜」。綱町三井別邸(現・綱町三井倶楽部)で行われた三井財閥の首脳とGHQとの会談を契機として始まった財閥解体をドキュメンタリー風に描いている。実際に綱町三井倶楽部や三井本館が撮影の舞台となっている。

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発行・販売元:NHKエンタープライズ
(c)2012 NHK

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.19|2013 Summer より)