三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

三井十一家戸主相互の契約

三井家憲の制定

家祖三井高利は家業の指針を「宗寿様元禄之御遺書」に残し、長男高平は「宗竺遺書」でそれを整理完成させた。後の三井各家は、これら先祖の遺訓をよく守って江戸期の繁栄を得たが、200年前の規定は新時代に適応しにくい問題点も抱えていた。そこで、三井家は井上馨に改革を依頼し、新たな家憲制定の道を探った。

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井上馨。後年侯爵に列せられた

延宝元年(1673)に江戸本町で商いを開始して以来、数々のアイデアを駆使し、一代で三井繁盛の基礎を築いた希代の商人三井高利が晩年に腐心したのは、その事業と資産をいかに分散することなく子孫に継承していくかであった。しかも、高利は10男5女の子だくさん。高利の薫陶を受けて事業を引き継いだ二代目の兄弟らはともかく、その後三代目、さらに四代目以降となれば身内間で財産争いや競争、分裂が起こらないとも限らない。

そこで高利が残した遺訓は、営業している店や売り上げは「身底一致(しんだいいっち)」の資産であり個人所有ではないということ、財産は各人が分割相続するのではなく一体として運用することとし、兄弟各家には、遺産の配分比率が決められた。これは「財産の総有」というべき概念であって、自己の持ち分の所有権を主張できる「共有」とは意味合いが異なる。

その高利の精神を引き継ぎ、現状に照らして基本方針を文書に集約したのが、長男・高平による『宗竺(そうちく)遺書』である。そこには一族の結束を図るための戒めから財産の分配や割歩、賄料(まかないりょう)(生活費)率、生活に関することなどがより具体的に示された。以来、三井各家は『宗竺遺書』を遵守し、繁栄を享受し続けた。

しかし、長い歴史と伝統は、ともすれば組織にも老化を進行させる。江戸中期から三井各家は家業に対して「君臨すれども統治せず」というスタンスに変わり、創業時における商家主人のリーダーシップや革新性を失っていた。なおかつ営業実務を取り仕切る番頭・手代を筆頭とする組織も伝統の上に硬直化し、時代の変化に対応できなくなっていた。そんな状況で幕末から始まる日本の変革期を迎えたのである。

「財産総有」の形式をどう残すか

この時期、三井には大きな家業存続の危機があった。それは幕府による高額な御用金の要求が主たる原因ではあったが、しかしそうした状況に陥ったこと自体、遠因として体制の経年劣化は否定できまい。このとき三野村利左衛門という救世主が登場したことは、三井にとってただ幸運であったとしかいいようがない。

三野村の活躍によって三井は幕末の危機を乗り切り、また維新後は明治政府とつながって繁栄の基盤を得たものの、新時代は三井家にまた新たな難題を突きつけた。それは、先に述べた三井家の「財産の総有」という形式は“営業財産は個人の所有権の上に立脚する”民法の規定にそぐわないという問題である。

大元方の営業資本を総有し、分割しないことがこれまで三井家の繁栄を支えてきたのだから、三井家は何とかこの制度を残そうと苦心した。三野村は、明治7年(1874)に三井家と三井家業のあり方について諸規則を改定。また三野村死後の明治19年(1886)に家政の改革が行われたが、その後明治22年(1889)に大日本帝国憲法が発布され、さらに翌年民法・商法が公布されることになると、三井家はいよいよ総力を挙げて問題解決のための改革に取り組まねばならなくなった。

そこで三井家が改革を依頼したのが井上馨である。井上は伊藤博文や山縣有朋らと同じ長州閥で、維新に貢献したことから明治政府の重鎮となった。貪官汚吏(たんかんおり)の巨魁として悪名を残し、海音寺潮五郎の『悪人列伝』にも描かれた人物だが、明治政府の発足直後から三井と関わりを持ち、明治20年代に入ると家政上の顧問として関係はより深くなっていた。

改革における井上の主張は、三井家の新たな家憲を制定することであった。そのいきさつについて、井上は次のように語っている。

「明治23年の当時より、同族各自は事業や生活に種々の争いの害を起こす憂いがあり、営業している各店相互においても競争の弊害を防御する必要を感じた。ゆえに、そのときより家憲をつくり、同族は互いに厳しく行動を見張り、とはいえ三井十一家がバラバラにならない方法を案出して将来の弊害を防止することが重要である。(中略)すなわち、家憲は同族間における契約の性質によって執行させるほかはないと考えるに至った」

そして井上は法学博士の穂積陳重(のぶしげ)と都築馨六(けいろく)に相談して草案をつくり、家憲制定の作業を開始する。

しかし、明治24年(1891)7月に三井銀行京都支店で取付騒ぎが起こると、これをきっかけに三井各営業店の改革が緊急課題として浮上し、それは一時期家憲制定作業の大きな障害となった。当時三井銀行副長であった中上川彦次郎も、家憲制定を優先する井上に、「財産あっての上の家憲、三井は家憲よりも何よりもまずその実力を養うのが大急務である」と反対した。

家憲制定の障害と『二六新報』

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二六新報と秋山定輔。執拗に三井攻撃を繰り返した

家憲制定作業は明治24年末には再開され、さらに翌年1月には大元方より同年中の家憲制定の意向が表明されたが、計画はなかなか進行しなかった。その動きがやっと本格化したのは、明治31年(1898)も末になってからである。

そうして家憲制定の準備がほぼ整ったとき、突如として『二六新報』による三井攻撃が始まった。『二六新報』とは、秋山定輔という人物が明治26年(1893)に創刊した日刊新聞である。三井攻撃の記事の内容は、三井家同族の腐敗と乱行をあげつらった人身攻撃から始まり、事業の失敗や損失の強調、中上川の工業化路線の批判など多岐にわたり、連日三井危機説を煽って大きな社会的反響を呼び起こした。

この時期、なぜ急に『二六新報』が三井攻撃を開始したのか謎は多く残るが、結局三井は秋山の提示した条件を飲んで和解に応じるほかはなかった。

その条件として示されたなかに、「三井家憲を制定すること、これを制定するについては二六新報がその議に与ること」という一文があった。そのことから井上が家憲制定を急がせるため、裏で秋山の糸を引いたのではないかという憶測も生まれている。ともあれ、三井家憲はこうした経緯を経て、明治33年7月1日を期して施行された。

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家憲制定式が行われた有楽町三井集会所

家憲は全10章109条で構成され、前文に制定の由来が簡単に付されている。内容は幅広いものだが、眼目は「財産総有」制の維持にある。民法上は個人が財産の持ち分を主張し、分割請求することが認められるが、三井十一家の戸主は当事者として「決してそのような請求はいたしません」と、家憲の名において契約を交わしたということなのである。

家憲制定の当日は、有楽町の三井集会所において三井十一家の26名、三井家顧問・井上馨、副顧問・都築馨六、渋沢栄一、穂積陳重、それに益田孝や中上川彦次郎ら7人の三井重役が列席し、神式で家憲実施奉告祭が挙行された。

※画像はすべて三井事業史より
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.17|2013 Winter より)