三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

未曾有の大震災に対し、
かつて三井は何を成したか

関東大震災と三井

日本列島には震災に関する数多の記録が残っている。しかもこの100年、私たちの記憶に残る短い期間でさえ、関東大震災、阪神淡路大震災、そして先の東日本大震災と、3度も巨大地震に見舞われた。そのなかで、首都圏の広域に被害を及ぼした関東大震災にあっては、三井各企業の本社も直接の被災者であった。

関東大震災は大正12年(1923)9月1日に発生した。地震の規模はマグニチュード7.9(阪神淡路大震災は7.3、東日本大震災は9.0)と推定されている。首都圏の被害が甚大なことから、関東大震災は首都直下型の地震であったと誤解されることもあるようだが、実際の震源は相模湾である。

地震の激しい揺れはもとより、発生が正午に近い11時58分であったことから、各地で昼食の支度に起因する火災が発生。それが、折からの強風に煽られて火炎流となり、震災被害はさらに拡大した。

死者・行方不明者約10万5000人、家屋被害は倒壊・焼失合計約37万3000戸といわれる。この未曾有の災害において、三井はどう対応し、何を成したのか。今回は、関東大震災における三井の動きについて綴ってみたい。

いち早く救済事業委員会を組織

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震災直後の東京日本橋。右は日本橋三越本店、左が旧三井本館(三越伊勢丹提供)

当時、三井は團琢磨合名理事長の時代であった。その日、葉山(神奈川)の別荘で静養中の團は、朝から同じ福岡藩出身でボストン留学時代からの親友・栗野慎一郎(*1)の別荘を訪問していた。昼時になり、もうそろそろ辞去しようとしていたときに揺れが来た。とっさに團は栗野の家族とともに庭に飛び出したが、その直後、栗野の別荘が倒壊したという。まさに危機一髪の出来事であった。

この地震で、東京では駿河町の三井本館(旧三井本館・以下同)や日本橋三越本店が類焼。三井本館は、建物の躯体は無事であったものの、内部が完全に焼けてしまった。

三井本館には、当時御三家と呼ばれた三井銀行、旧三井物産、三井鉱山が入居していた。また、三井組の統括機関である三井元方(もとかた)や三井同族会事務局も本館内にあり、まさに三井の中枢が一度に被災してしまったのである。

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無惨なライオン像の焼け跡(三越伊勢丹提供)

そうした状況でありながら、三井は震災発生直後に三井合名、三井銀行、旧三井物産、三井鉱山、東神倉庫の各社による救済事業委員会をいち早く組織する。交通や通信が途絶しているため、まだ葉山から戻ることのできない團を不在のまま委員長に指名し、着々と救援活動の準備を整えていった。

一方、葉山の團には、三井合名の伝令により東京の惨状と速やかな帰京の要請が9月3日に伝えられたが、團には帰るための足がない。しかし、この地震によって葉山で死亡した枢密顧問官の松岡康毅男爵の遺骨が横須賀から駆逐艦で運ばれることを知ると、團はそれに便乗し、震災発生から4日経った9月5日にやっと原宿の自宅にたどり着くことができたのである。

團の留守宅には震災で焼け出された米国大使のサイラス・ウッズ一家が避難していた。ウッズ大使は、震災時にも混乱をきたさず人に対する親切心を忘れない日本人に感銘し、その後米国からの物資の補給や医療対策など大規模な救援活動を展開する。それには、もちろん團との親交も心情的に後押ししていたことだろう。そして、その救援活動の日本側窓口の責任者は、三井合名理事の阪井徳太郎であった。

金銭上の心配はするな

帰京した團は、三田の綱町別邸(現・綱町三井倶楽部)(*2)に本部を置き、救護、会計、建築、庶務、食糧、情報の各部を設け、救援活動の陣頭指揮をとった。

「金銭上の心配をせずにできるだけのことをやれ」というのが團の指示であった。以下、三井が行った主な救援活動を列挙する。

(1) 救援物資の調達と輸送、提供
旧三井物産は食料品、衣料品、建築資材、日用雑貨などを同社所有の船で大量に輸送し、東京の関係官庁や病院などに拠出。三越は東京の各地にマーケットを開設して実用品を取りそろえ、市民生活の安定に奉仕した。

(2) 仮設住宅などの建設
監督官庁に届け出た上で、東京市内に131棟・1531戸、横浜市内に30棟・300戸の仮設住宅を建設。託児所を2カ所、治療所を3棟建設した。

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当時の泉橋慈善病院(国立国会図書館蔵)

(3) 医療活動
幸いにも泉橋(いずみばし)慈善病院(三井慈善病院から改称、現・三井記念病院)が類焼を免れたため、罹災傷病者の収容に努め、可能な限りの医療活動を行った。

(4) 寄付金
直接的な救援活動に加え、9月5日には内務省臨時震災救護班に500万円の寄付を申し出た。これは現代の貨幣価値で25億円以上(値段史年表より推定)に相当する。

組織としてばかりでなく三井各家も個々に救援活動を行っているが、特に北家(三井総領家)は自邸敷地を開放し、その中に建設した15棟96戸の仮設住宅に罹災者を収容している。

震災を契機に新たな三井本館を建設

救援活動と同時に、当然ながら被害を受けた三井の拠点、各施設の復旧も急がねばならない。最も重要な課題は、三井本館をどうするかであった。周辺の火災による類焼で内部は焼失していたものの、耐火煉瓦で被覆された建物の鉄骨部材に被害はなく、躯体は概ね無事であった。

改修か、あるいは改築してしまうか。それに対する團の決定は、改築であった。理由は、東京全体の震災からの復興に対して三井が範を示す必要があるということ、また三井の今後の発展を考え、これまでの三井本館では手狭になると予想したことが伝えられている。本館周辺にはすでに三井2号館、3号館、4号館が建設されていたが、協議の結果本館と3号館を取り壊し、新たな本館を建築することになった。

新館建築に際しては、團は「三井の新館はGrandeur(壮麗)、Dignity(品位)、Simplicity(簡素)の3要素を必ず備えていなければならない」と常に語っていたという。また、三井合名社長の三井八郎右衞門高棟は「関東大震災の2倍の地震が来ても壊れないものをつくるべし」と命じた。こうして建築されたのが、現在の三井本館である。

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現在の三井本館(東京・日本橋)は関東大震災を契機に建て替えられた

ところで、前出のウッズ米国大使が大使館を焼け出されて行き場を失い、連れていた80歳の母が歩けなくなっていたとき、ある民家ではわざわざ畳を外に持ち出して老母を休ませてくれたという。

「日本の国民は震災に遭っても混乱せず、落ち着いていて、しかも大変に親切であったということに驚いた」と團に語ったといわれる。理性を失わない落ち着いた行動は、阪神淡路大震災のときも、そして東日本大震災のときにも必ず見受けられた光景で、日本人の誇るべき資質といえる。

團は後に、中外商業新報(現・日本経済新聞)の論説のなかで次のような一文を掲げている。

「復興如何は、一つに災害直後の緊張せる精神の、継続するか否かによって決するであろう。…(中略)…この苦き経験を善用して事に当たらば必ずしも回復は困難ではない」

これまで苛酷な自然災害に遭う度に、日本人は団結し、耐え忍び、知恵を出し合って粘り強く困難を克服してきた。東北の被災地はまだ途上ではあるが、近い将来見事な復興を遂げることだろう。

*1 栗野慎一郎:ハーバード大学に留学した外交官。中米公使兼駐メキシコ公使、駐イタリア公使兼駐スペイン公使、日露戦争時のロシア公使、初代駐フランス全権大使等を歴任

*2 綱町別邸も損傷を受けたが、原設計に忠実に補強・改修が行われ、昭和4年(1929)に工事を完了した

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.16|2012 Autumn より)