三井の歴史

三井広報委員会
活動紹介パンフレット (4.4MB)
イメージ

コラム「三井を読む」

益田 孝(前編)

徳川政権末期、幕臣として青年時代を過ごし、後に世界初の総合商社「旧三井物産」を設立。また、現在の「日経新聞」の前身である「中外物価新報」を創刊した。大茶人「鈍翁」としても知られる益田孝という人物の、まずはその前半生を綴る。

幕末から明治に至る激動の時代、それまで連綿と続いて財を成してきた大店(おおだな)のいくつかは、社会変革の波に乗り切れずにその寿命を終えた。もちろん、三井と言えども例外ではなく、存続の危機は幾度も到来した。

しかし三井にとっての幸運は、まるで天の意志であるかのように、その度に傑出した指導者が現れて道を示したことだ。彼らは当面の危機を回避するのみならず、優れた才覚で近代に至る三井財閥としての基盤をより強固にしていった。

三野村利左衛門、中上川彦次郎、そして益田孝。日本の大変革の時代に三井を導いた強力なリーダーとして、この3人の名を挙げることができよう。

ただ、3人のなかで益田孝は、三井とかかわり合うきっかけの部分で前者2人とやや異なる印象がある。三野村と中上川が財政的窮地に陥った三井の再建を託され、請われて外部から三井入りしたのに対し、益田の三井におけるスタート地点は、当時の三井にとっては本流から外れた新事業、旧三井物産という商社の立ち上げであった。しかも、三井家は旧三井物産の創設に当たって一銭も出資していないのである。益田自身は『自叙益田孝翁伝』(長井実・編)で次のように語る。

益田孝

旧三井物産時代の益田孝
(公益財団法人 三井文庫所蔵)

「井上(馨)さんは同意して、私に(新会社の)社長になって主宰してくれと懇望され、三野村なぞも話に来て、とうとう引受けたが、これは俸給から何からすべて契約で、一切私が責任を負うたのである。もしやり損ねても三井は責任を免れることになっていた。私は自分の財産も三井に入れてしまった。財産というほどのものはないが」(カッコ内は筆者補足)

社名にこそ三井の名が冠され(三井物産(旧三井物産のこと)という社名は益田が命名した)、社主に三井同苗(どうびょう)の武之助(当時22歳)と養之助(21歳)を迎えてはいるものの、同社の出発はほとんど益田が全責任を負う個人的な会社と言ってもよかった。その旧三井物産は、ほどなく三井銀行、三井鉱山とともに三井財閥の主要な地位を占めるまでに成長を遂げていく。

遣欧使節団に加わって世界を知る

益田孝が没したのは昭和13年(1938)。91歳という長寿であった。昭和二桁まで存命であったことから、現代の私たちにとってどことなく時代的な身近さが感じられなくもない。が、実は青年期の益田は幕臣であった。髷(まげ)を結い、大小の刀を差し、若き日は武士として江戸末期を生きていた。

益田孝は嘉永元年(1848)10月17日に佐渡の相川で生まれた。幼名を徳之進と言い、数え8歳までを佐渡で過ごしている。

家は代々地役人として佐渡金山にかかわっていたことから、徳之進も鉱山関係の諸事を見聞して育ったという。後に益田は三池炭鉱の買収に際して大きな賭けをし、また鉱山経営を重視した。それはある意味、こうした幼少時の見聞による鉱山に対する思い入れのようなものがあったからではないだろうか。

安政2年(1855)、幕府が函館奉行所を設けると、徳之進の父・鷹之助は幕臣に取り立てられて転任し、家族も函館に移住する。さらに安政6年(1859)、徳之進が12歳のときに鷹之助は江戸詰の外国奉行支配定役を拝命し、一家も江戸に移って徳之進は外国語修習見習生となる。そして試験を受けて合格し、14歳で支配通弁御用出役(通訳官)として任官。幕臣の末席に加わると、やがて麻布善福寺のアメリカ領事館勤務を命ぜられ、実地に英語を習いながら間近に初代公使のタウンゼント・ハリスに接した。

拡大画像をみる

写真

幕府の遣欧使節としてスフィンクス見物をする一行(1864年4月4日 三宅立雄氏所蔵)。撮影者は当時の日本風俗を数々海外に紹介したフェリーチェ・ベアトの弟のアントニオ・ベアト。最前列左から2人目陣笠を手に持っているのが父・益田鷹之助、その左斜め後ろで横を向いているのが益田孝

この頃の徳之進の英語の師はミセス・ヘボンであったという。ヘボン式ローマ字で知られるアメリカ人医師、ジェームス・カーティス・ヘボン博士の奥方であった。ミセス・ヘボンはヘボン塾と呼ばれる家塾を開いていて、それは後の明治学院やフェリス女学院の母体となっている。

文久3年(1863)、幕府がフランスに使節団を派遣することになると、メンバーのなかに鷹之助が加えられた。徳之進も同道を申し出たが、親子が一緒に洋行するのは禁じられていたため、徳之進は益田進と名を変え、鷹之助の家来としてメンバーに加わった。

一行の船は上海から東南アジア各都市に寄港しつつ、アラビア海を渡ってカイロに上陸。スエズ運河がまだ開かれていない時代であったために、エジプトでは地中海側のアレクサンドリアまで陸路をたどった。スフィンクスを背景にした侍の写真が知られているが、それはこの使節団がカイロでギザに立ち寄ったときの記念写真であった。若き益田徳之進も写真のなかほどに収まっている。

徳川時代の終焉とともに武士から商人に転身

一行はアレクサンドリアから地中海を船で進み、マルセイユでフランスに上陸してパリに到着。50日間滞在した。益田少年も裁着袴(たっつけばかま)(*)に陣羽織という出で立ちでパリの街を闊歩したという。皇帝ナポレオン三世の治下、当時のパリにはすでに下水道が敷設され、ガス灯がともり、電信の設備などもあった。こうした文明の落差に一行は大きな衝撃を受けたに違いない。因みに、後の旧三井物産が最初に海外支店を開いたのは上海、その次がパリであった。恐らくこのときの益田の洋行体験が、支店開設地の選定にいくらか与(あずか)っていたのではないだろうか。

帰国後、徳之進は英会話を実地に習うため、横浜の運上所勤務を願い出る。また横浜に寄留中、騎兵隊に入隊し、フランス軍人から馬術とフランス語を学んだ。

そして慶応4年(1868)1月、徳之進は江戸城で将軍徳川慶喜より直々に騎兵頭並(きへいのかみなみ)を任じられ、20歳にして幕府騎兵隊の隊長となった。しかし、同年4月に江戸城は官軍に明け渡されて徳川時代は終焉を迎えてしまう。将軍は駿府70万石として静岡に移ることになり、多くの旗本もそれに従ったが、徳之進はこの時点で武士をやめて商人になろうと決意する。

実業家としての益田孝の出発であった。(後編に続く)

裁着袴:ひざから下の部分を脚絆のように細く仕立てた袴。武士の旅行用。現代では相撲の呼び出しが着用している

西欧文明に触れた侍たち

遣欧使節団がフランスに着いたときのユニークな逸話を、益田孝の述懐から紹介しよう。

「田中という人は一行の内でもなかなかやかましい人であったが、いよいよマルセーユに上陸してホテルに着くと、どうぞこちらへと言うて案内するから入ってみると、実に狭い部屋である。いかに日本が小国だというて、我々をこんな狭い部屋に通すというのは実に怪しからぬと言うて、ぷんぷん怒り出した。しきりに怒っていると、その部屋がスーと上へ上がっていった。エレベーターなんだ」(前掲書より)

エレベーターの中で唖然とする侍の姿が目に浮かぶような話だ。

益田孝 略歴

1848 相川(佐渡)にて誕生
1855 父親の任地、函館に一家で移住(8歳)
1859 父親が江戸詰となり一家で移住。徳之進、幕臣として外国奉行支配通弁御用出役を拝命(12歳)
1861 アメリカ公使館詰となる。「通弁御用当分出役」に。ヘボン塾で英語を学ぶ(14歳)
1863 遣欧使節団に参加し、12月出国(16歳)
1864 3月パリ着。7月横浜帰着(17歳)
1865 英軍の調練に参加(18歳)
1867 騎兵として操練開始。髷を切って散切り頭に(20歳)
1868 騎兵頭並を受命。富永えいと結婚。江戸城引き渡しに伴い御役御免の辞令を受け、実業家への転身を決意(21歳)

以下、後編に続く

※ 本記事内の年齢は、数え年で表記してあります。
※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.14|2012 Spring より)