三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

中上川彦次郎

中上川彦次郎は、山陽鉄道の社長であった明治24年(1891)、政界の実力者で三井の最高顧問格でもあった井上馨の要請を受け、37歳で三井銀行に入行した。以後、10年にわたって旧弊改革の大なたを振るうとともに、多くの優れた人材を登用。また工業事業を推し進めて三井財閥の近代化に大きく貢献した。

明治以降、近代における三井財閥隆盛の基礎は、まずは金融業にあったといえよう。三野村利左衛門(みのむらりざえもん)の才覚によって維新前後の危機を乗り切った三井は、事業の主体を三井銀行(明治9年設立)にシフトし、さらに明治政府との強いかかわりをもって国内金融市場に着々と地位を築いていった。

しかし、その官とのかかわりが、やがて政府高官や役人らによる、返済を催促できない情実貸しの増加といった問題を引き起こす。後の調査によれば、明治23年(1890)末で、回収困難な不良貸付は貸出金全体の4割弱にものぼっていたといわれる。そこに、幣制改革を発端とする日本初の恐慌が起こり、不良貸付の多い三井銀行は存続のピンチに陥ってしまった。

三野村亡き後、この状況に対処できる人材は三井内部におらず、古くから三井と縁があって財界の黒幕とも呼ばれる官界の井上馨に一任されることとなった。井上はまず支店の閉鎖、老役員の整理、貸出金額の制限など16カ条の改革案をまとめたが、やはりそれを実行する指導者が見当たらない。そこで三井の外に人を求め、白羽の矢が立ったのが中上川彦次郎であった。

叔父は福澤諭吉

中上川は「なかがみがわ」と読みそうになる。実際、大宅壮一文庫の人名索引でさえそう記述されていたそうだが、正しくは「なかみがわ」である。

中上川彦次郎の母は、旧姓を福澤婉(えん)といい、福澤諭吉の4歳上の姉であった。つまり、彦次郎は福澤諭吉の甥ということになる。

中上川家は豊前国(現・大分県)中津藩の武士の家柄で、彦次郎は黒船来航の翌年、安政元年(1854)8月13日に生まれた。幼少時は武士の子のたしなみとして漢学を学んだが、長じるにつれて洋学に興味を持ち、明治に時代が変わると14歳で叔父・福澤諭吉を頼って慶應義塾に入門した。

明治7年(1874)、21歳の彦次郎は福澤の費用負担でロンドンに遊学し、3年を過ごした。この時期に、海外の経済調査という名目でロンドンに来た井上と知り合い、これが後に三井と結び付くきっかけとなった。

帰国後彦次郎は官界入りし、25歳の若さで外務省の局長にまで昇進した。しかし、明治13年(1880)に政変が起き、それに巻き込まれて退官の憂き目に遭う。民に下ると福澤が創刊した『時事新報』の社長に就任、さらに明治20年(1887)、今度は山陽鉄道会社の社長に選出され、神戸から福山までの鉄道開通事業に尽力した。

しかし、人と馴れ合わない彦次郎に敵は多く、山陽鉄道ではやがて大口の株主らと対立する。そのような状況の明治24年(1891)中頃、所用で上京する彦次郎は東海道線の車内で井上と偶然一緒になった。すると井上はそれとなく三井銀行の近況を語り、改革者として三井に来ないかと勧誘したのである。経営方針をめぐる山陽鉄道の内紛に嫌気がさしていた彦次郎は、即座に三井行きを決心する。

債権回収で断固たる姿勢を貫く

中上川彦次郎

三井銀行時代の中上川彦次郎
(公益財団法人 三井文庫所蔵)

理事という立場で三井銀行入りした彦次郎がまず行った改革は、新しい人材の登用であった。当時は企業が学卒者を採用する習慣はほとんどなかったが、彦次郎は主に慶應義塾出身者を採用し、小僧から叩き上げられた手代や番頭らの集まりといったそれまでの三井の行員の中に送り込んだ。

次に、業績悪化の直接原因でもある不良貸付金の回収を行った。その多くは官金扱いの悪弊から生じ、官に対するへつらいが染み付いている従来の手代や番頭たちでは催促のできない焦げ付きであった。彦次郎は、相手の身分や過去の情実にとらわれずに対応できる、新たに採用した人材を用いて債権回収、整理を断行したのである。

同時に官金扱いの廃止にも着手した。不良貸付を整理していくと、必ず官との関係に突き当たるからであった。日銀に官金扱いの辞退を申し出ると、明治25年(1892)3月から地方店舗における官金の出納事務を逐次返上し、約7年かけて官金扱いをすべて終了させた。こうした措置が奏効し三井銀行の業績が回復すると、彦次郎は事実上三井トップの副長という立場から、さらに工業化路線を推進していった。当時三井が買収したり経営に当たった企業には、王子製紙、芝浦製作所、鐘淵紡績、富岡製糸所、三池炭礦、北海道炭礦鉄道などがある。

これら企業の業績は、日清戦争が及ぼした好景気もあってまずは順調であった。しかし、戦時景気の反動がくると、どこも赤字続きとなり彦次郎に対する風当たりが強くなっていった。そのような折、「二六新報」という新聞が三井への攻撃を連載したのである。彦次郎はこのとき「萎縮腎(いしゅくじん)」と呼ばれる腎臓病を患っていた。

この新聞報道によって取付け騒ぎ(*)が起こり、大口預金者の日本赤十字社が200万円を引き出し十五銀行に預け替えるという事態を招くにいたって、三井の幹部は震撼した。彦次郎の三井内での影響力はこうして徐々に衰退し、明治34年(1901)10月7日、48歳の若さでその華麗な生涯を終えた。しかし、短い期間ではあったが、旧弊にまみれた三井の体質を近代化させ、三井財閥の基盤強化に彦次郎が大きく貢献したことは間違いない。

取付け騒ぎ:信用不安などから預金者が金融機関の窓口に殺到し、預貯金を引き出そうとして混乱する現象

「車掌」という職名を考案

鉄道運行に携わる「車掌」という職名は、今日誰もが違和感なく用いている言葉だ。それには次のような逸話がある。

中上川彦次郎が山陽鉄道の社長だった当時、車掌は「車長」と呼ばれていた。車中の支配人(英語のConductorに由来する)ということからそう呼ばれたが、しかし彦次郎は、「車長」は「社長」と響きが同じでよくないとし、「車掌」を考案。山陽鉄道内でそのように呼称した。それが後に日本中で用いられるようになったわけで、今日の「車掌」は彦次郎がつくり出した言葉なのである。

日本経済を担う人材を発掘

三井入りした中上川彦次郎が学卒者を採用したのは、不良貸付先である官僚らと対等に渡り合うためであった。彼らに高給を与えてプライドを持たせ、債権回収の大なたを振るわせたのである。この時期に採用した人材の多くが今日に至る企業を発展させ、日本経済を牽引する役割を担った。

例えば王子製紙を育てた藤原銀次郎、大日本製糖を業界の王者に育て上げた藤山雷太、鐘淵紡績(カネボウ)を世界最大の紡績会社に導いた武藤山治、三越を日本一の百貨店とした日比翁助、信託業の道を拓いた米山梅吉、阪急東宝グループを築いた小林一三らがいる。そうそうたる顔ぶれだ。

中上川彦次郎 略歴

1854 中津藩(現・大分県)にて誕生
1869 慶應義塾入門(14歳)
1874 ロンドン遊学(21歳)
1878 工部省入省(23歳)
1882 『時事新報』社長就任。慶應義塾出版社社長就任(28歳)
1887 山陽鉄道社長就任(33歳)
1891 三井銀行入行(理事/37歳)
1892 三井銀行副長就任。実権を握る(38歳)
1893 三井元方設置。日本郵船会社取締役就任(39歳)
1897 日清戦争景気の反動不況が始まる(43歳)
1901 腎臓病により死去(48歳)

(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.13|2012 Winter より)