三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

團琢磨

團琢磨は鉱山技師として国営の三池鉱山に従事していたとき、旧三井物産の益田孝にその才能を見出され、同社の三池鉱山買収によって三井の一員となった。以後、技術者としてばかりでなく事業家としても優れた手腕を発揮し、57歳で三井合名会社理事長に就任。明治維新以来、拡充強化の歩みを続けてきた三井の各事業をさらに発展させていった。

團琢磨の名前は、日本近代史の中では過激思想家によって暗殺された経済人としてよく登場する。しかし、本来注目されるべきはその業績であろう。三井合名理事長としての手腕もさることながら、三井鉱山時代の三池港の筑港や鉄道敷設、日本工業界の牽引、あるいは日本経済連盟会の結成など、三井という企業の枠を超えて公的な面でも数々の功績がある。また、年配者にとっては作曲家でエッセイストであった團伊玖磨(いくま)の祖父、若い人にとっては女優の團遙香(はるか)の高祖父と聞くと、團琢磨という人物が少し身近に感じられるかもしれない。

團琢磨は安政5年(1858)、300石取りの福岡藩士・神尾宅之丞の4男(一説には3男)に生まれ、幼名を駒吉といった。安政5年は井伊直弼が大老となり、日米修好通商条約が結ばれた年である。その駒吉は12歳で福岡藩の勘定奉行を務めた團尚静(なおきよ)の養子となり、以後團琢磨を名乗った。

團琢磨

團琢磨(1858〜1932)。関東大震災で被災した旧三井本館を、現在の三井本館へと建て直す指示をしたことでも知られる

14歳になると、福岡藩主であった黒田長友が岩倉使節団の一員として海外視察をすることになり、その随行員として明治5年(1872)に渡米する。当時は廃藩置県が行われたばかりで、それまでの大名は世界の情勢を知るために洋行しなければならなかったのである。ともあれ、元藩主のお供に抜擢されたのだから、少年のころから相当優秀な人物であったに違いない。

随行員として渡米した翌年、團はボストンで英語を一から学び、その後マサチューセッツ工科大学の鉱山学科に進んだ。鉱山学を志した理由は、日本にある鉱山資源を掘り起こして国を富ませたいという気持ちがあったからだといわれる。そして、明治11年(1878)6月に卒業し、7年にわたる米国生活に終止符を打ち帰国する。

ところが、せっかく学んできた高度な鉱山学も当時の日本では使途がなく、團はやむなく大阪専門学校で英語の助教師に職を求め、次に東京帝国大学理学部の工学・天文学の助教授となって生計を立てた。それでも、鉱山学の専門知識を生かしたかった團は、一緒に渡米し元老院の書記官に就任していた金子堅太郎 (*1)に相談をもちかけてみた。するとその口利きが奏功し、明治17年(1884)に工部省に入省。准奏任官 (*2)として三池鉱山局の技師となった。そのとき團はまだ25歳の青年だった。

ところが、技術視察のために團が再度外遊すると、その間に政府機構が改革されて所属する工部省がなくなってしまったのである。また、三池鉱山も三井に買収されていた。團はせっかく得た鉱山技師としての職を失うかに見えたが、当時の三井の大番頭益田孝は、「團琢磨を含めての三池鉱山の買収である」と言い、團を三池炭鉱社事務長に任命したのである。明治21年(1888)、こうして工部省の團は三井の團琢磨となった。

根本理念は金儲けというより事業そのものの成立

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三池炭鉱坑内の排水に用いられたデーヴィ・ポンプ

三池炭鉱坑内の排水に用いられたデーヴィ・ポンプ。世界最大の大きさであったという

さて、三井のメンバーとなってからの團琢磨の業績を列挙してみよう。

三池炭鉱は石炭の埋蔵量は豊富であるものの、掘るほどに水が出てくるという問題があって国営時代の政府を悩ませていた。團は外遊中にその対策を研究し、三井資本となってから英国のデーヴィ・ポンプと呼ばれるシステムを導入した。ただ、デーヴィ・ポンプはおそろしく高価で、もしも成果が出なかったら責任問題に発展するところであったが、團の読みどおりこの施策は成功。出水の悩みは一気に解決し、三池炭鉱の出炭量は数倍に跳ね上がった。

また、当時の日本の炭鉱は囚人を鉱夫にしていたが、團はこれに異を唱えた。囚人を牛馬のように使えば賃金は安く上がるが、いつまでたっても進歩も向上もない。むしろ一般市民に正当な賃金を支払って雇用するほうが能率的であるというのが團の主張であった。こうした考え方を受け入れない上層部に対しては、自らのクビをかけて交渉に当たり、三池炭鉱の近代化を進めていった。

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團琢磨の指示で筑港された三池港のシンボルともいうべき閘門

團琢磨の指示で筑港された三池港のシンボルともいうべき閘門(こうもん)。干満差の大きい有明海に大型船が入れるようになった

三池港の筑港も團の成した大きな事業のひとつ。石炭の大量輸送に利用される三池港は遠浅で、しかも干満の差が非常に大きいため大型船が接岸できない。そこで大規模な浚渫 (*3)を行い、常時1万tクラスの船の接岸を可能にした。三池港は海外への石炭輸出強化を目的に築かれたが、團には地元民の生活保障という動機もあった。

「石炭が尽きても地元の人が生活できるような置き土産が必要。筑港をすればいくらか100年の基礎になる」と團は語っている。事実、明治41年(1908)に完成した三池港は、三池炭鉱がその役割を終えた100年後の今も、当時の姿のまま地元の産業と流通を支え続けている。

三井の團琢磨から日本経済界の大御所へ

明治43年(1910)3月、團は三井合名社長の三井八郎右衞門高棟に随行し、欧米へと旅立った。欧米の産業界における技術革新の萌芽を視察するのが目的であったが、一方でこの旅には三井の各事業を統括する益田孝の深謀遠慮もはたらいていた。益田はかねてより自分の後継者に團を推挙しようと考えていたが、それには社長が團の人となりをよく理解していることも必要で、益田はそのために、團に三井高棟社長の随行という役目を与えたのである。

「一緒に旅行するのが一番いい。旅ほど人物の全貌のはっきりするものはない」と益田は言う。こうした意を受け、大正3年(1914)に團は三井合名理事長に就任。益田は相談役に退いた。

大正3年は第一次世界大戦が勃発した年で、以後しばらく欧州諸国が戦争をしている間に日本は産業を飛躍的に発展させていった。それにともない三井の経営も拡張を続け、團が理事長在任中に新たに興した産業は、製鉄、製鋼、造船、化学肥料等、さまざまな分野に及んでいる。

團は理事長就任の2年後、新しく創立された「日本工業倶楽部」の理事長に就任した。これは、團が日本工業界の指導的地位に立ったことを物語っている。また、大正11年(1922)には日本の経済界をまとめるために「日本経済連盟会」が設立され、團は理事長に選出されたが、昭和3年(1928)には新たに設けられた会長職に推挙された。さらに團は、多年の功労によりこの年の11月に男爵を授けられている。

しかし、日本経済は昭和のはじめに世界恐慌の影響を受け、揺れ動いていた。特に三井は恐慌時に大量のドル買いを行い、私利私欲に走っているとみなされ、マスコミからの激しい批判に晒されていた。昭和7年(1932)になると、そうした空気は社会に色濃く充満。過激な思想集団が跋扈(ばっこ)し、まず2月に前蔵相の井上準之助が血盟団員の凶弾に倒れた。そして次が團琢磨であった。

同年3月7日11時25分、出社した團はいつものように三井本館の三越側玄関から入館しようとした。そのとき、血盟団員の菱沼五郎が近づき、拳銃を團の右胸に押し当てて発射したのである。弾丸は心臓の大血管を損傷させ、その45分後に絶命。75歳であった。

1 金子堅太郎:福岡藩出身。明治期に司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任。日本法律学校(現日本大学)初代校長

2 准奏任官:奏任官(そうにんかん)とは天皇に奏聞した上で任命される明治憲法下の高等官。准奏任官は、奏任官に準ずる立場

3 浚渫(しゅんせつ):河川や湖沼、港湾などで水底を掘って水深を得る仕事

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.12|2011 Autumn より)