三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

三野村利左衛門

幕末の混乱期、三井は本店(ほんだな)や両替店など各事業の不振に加え、幕府からの度重なる御用金の賦課にあわや破産という状況にまで追い込まれていた。そうした窮状を救ったのが三野村利左衛門(1821〜1877)であった。のみならず、利左衛門は旧弊に染まった三井の組織改革を断行し、後の三井の根幹をなす重要事業の基礎を築き上げた。

三野村利左衛門という名前は、三井の組織に入ったときに名付けられたものだ。それまでは美野川(紀伊国屋)利八と称し、さらに幼少のときに何と呼ばれていたかは不明である。

利左衛門の出身については確たる資料がない。本人が語ったという記録によれば、出羽庄内藩士・関口正右衛門為久の三男、松三郎を実父として、文政4年(1821)11月に信濃で誕生したという。松三郎は同藩の木村利右衛門の養子となっていたが、いかなる理由からか朋友の憎しみを買い、出奔して浪人した。幼い利左衛門とその姉を連れて西国を放浪し、九州で死んだという。遺児となった利左衛門と姉は延岡に転じたが、その頃の境遇は悲惨をきわめたもので、後に三井に入った利左衛門は苦難に満ちた生活体験を後輩に語っている。

利左衛門が江戸にやって来たのは天保10年(1839)であった。鰯の干物を扱う深川の丸屋という問屋に住み込み奉公したが、このときの実直な働きぶりが人の目にとまり、やがて駿河台に屋敷を構える旗本、小栗家に仲間(ちゅうげん)として雇われることになった。このことは利左衛門にとって、また後の三井にとっても幸運であったといえよう。当時、小栗家の嫡男忠順(ただまさ)(後の勘定奉行小栗上野介(こうずけのすけ))はまだ10代で部屋住みの身分、つまり無役であったが、6歳年上の利左衛門は年齢の近かったこともあり、忠順と親しい主従関係を築き、それが後にさまざまな好影響を及ぼしたからである。

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三野村利左衛門

三野村利左衛門は文盲に近かったが、数字に対する回転の速さは天才的であったという(公益財団法人 三井文庫所蔵)

利左衛門はやがて神田三河町で油や砂糖を売っていた紀伊国屋の美野川利八に見込まれ、25歳で利八の娘の婿養子となり、同名を襲名して紀伊国屋を継いだ。それからは妻がつくる金平糖を行商で売り歩く日々が続いたが、10年に及ぶ苦労の末、いくらか蓄えることのできた資金を元手に、脇両替というごく小規模な両替商を始めた。

そして、ある日小栗邸を訪ねたとき、洋銀との交換比率の関係から、品位の高い天保小判1両を万延小判3両1分2朱に換価する発令の出ることを耳にしたのである。そこで利八は事前に天保小判の買い占めを図り、また買い集めた天保小判を付き合いのあった両替店に担保に入れて金を借り、その金でまた天保小判を買い集め、大きな利益を得た。

その、付き合いのあった両替店の主人が三井の手代をしていた関係から、利八のこうした機敏な行動が三井の主席番頭斎藤専蔵(後に純造)の目に留まり、それがきっかけで利八は三井両替店にも頻繁に出入りするようになっていった。

破格の待遇で三井入り

幕末における三井は、創業以来の危機に直面していた。本店越後屋の不振に加え、両替店も長期不良貸金が累増して資金繰りを圧迫していた。なかでも開港によって横浜に開店した店の経営状態が最悪で、預かっていた外国奉行の御用金に手をつけ、浮き貸しによる大欠損を生じていた。そのような時期に、幕府から巨額の御用金が賦課されたのである。

幕府は長州征伐の軍費をはじめとする莫大な支出に苦しみ、江戸の富商にしばしば御用金を課していたが、なかでも三井に対する割当額は大きかった。まず元治元年(1864)10月に100万両の要求があった。幕府は三井横浜店の内情を察知していたらしく、預かり金の全額即納、またそれができない場合は財産没収という態度をちらつかせていた。

さらに、慶応元年(1865)5月に1万両、翌年2月に150万両、4月に15万両と、わずか3年間に合計266万両もの御用金を要求した。とはいえ、瀕死の瀬戸際に立っている三井としては物理的にも求めに応じられる額ではなく、とにかく減額を嘆願するしか方法はなかった。そこで助力を求めたのが、勘定奉行小栗忠順と縁の深い紀伊国屋利八であった。

三井の要請に応じた利八は、忠順の部下の勘定組頭小田直太郎を通じて減額運動を開始した。ずいぶんと運動資金もかけたようだが、忠順には条理を尽くして三井の窮状を訴え続けたという。それが奏功し、先の100万両の御用金は取りやめ、慶応2年の150万両は50万両に減額となり、後にはさらに18万両にまで減額して分納の了解を取り付けることに成功した。しかもその後、三井への御用金要求は一切なくなったのである。

利八の尽力よって三井は破産寸前の危機を脱した。三井の救世主として、利八は江戸の三井両替店の感謝と信頼を一身に集めることになり、これを契機に利八の三井入りが決まった。そして雇い入れの際に、三河町紀伊国屋の姓である美野川の「美」を三井の「三」に、「川」を実父の木村姓から取って「村」に変え、名を利左衛門と改め、以後利八は三野村利左衛門と名乗ることになったのである。

利左衛門の三井での立場は、幕府から命じられた江戸勘定所貸付金御用と外国方御金御用達の業務を管轄するために新たに設置された、大元方直属の「三井御用所」(後の海運橋為換座三井組)の責任者(通勤支配格)であった。ときに利左衛門は45歳。三井の奉公人は京、江戸の本店、両替店を問わず、12〜3歳で奉公人請状を出して住み込む(小供奉公)のが通例で、三井の長い歴史の中で小供奉公を経ずにこのような重役に抜擢された例はない。

日本経済の成長の端緒を担った

さて、三井入り後の利左衛門の活躍は、三井事業史等さまざまな資料で詳細に語られているとおりである。残り少ないスペースでもあるので、簡単に利左衛門が成した功績を列挙しよう。

三井が大政奉還後に新政府との関係を強めていったのは利左衛門の指揮によるものとされる。利左衛門は幕末に薩摩藩との接触を持ち、西郷隆盛とのつながりも深かったといわれる。明治元年(1868)2月、会計事務局為換方拝命を皮切りに新政府の要職につき、国の財政難を乗り切るための施策である「太政官札」発行事務を引き受けたのは、ある意味新政府に貸しをつくるためであった。そして利左衛門は当時の大蔵卿 (*) ・大隈重信や大蔵大輔・井上馨、大蔵大丞・渋沢栄一らと親交を保ち、関係を深めていた。こうした施策が実を結び、明治4年(1871)6月、新貨幣との交換における地金回収の国内実務を独占的に引き受けることに成功。後年の私立三井銀行創立に至る道を拓いたのである。

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  • 「東京名所海運橋五階造真図」

    「東京名所海運橋五階造真図」。利左衛門主導で建設が進められた。後に第一国立銀行となる(公益財団法人 三井文庫所蔵)

また、利左衛門は三井家家政や大元方の改革に手をつけている。三井組と三井家との間に一線を画し、時勢の動向に合わせて大元方を東京に移転し、旧弊を廃して三井の組織をより強固な形に変革した。200年続いた組織だけに保守的で固陋(ころう)な重役の抵抗もあったであろうと推測できるが、そうした中で中途採用の外様がメスを振るい、改革を成し遂げたのである。

さらに、利左衛門は商社の設立にも配慮を示し、明治9年(1876)7月に旧三井物産会社が発足した。こうして明治から昭和に至る大三井財閥の基礎を盤石に築きあげ、翌明治10年(1877)2月に胃がんのために没した。57歳であった。

三野村利左衛門は単に三井の三野村であるだけでなく、維新後、始まったばかりの近代日本経済が成長していく端緒を担った傑物でもある。福沢諭吉は、「無学で偉い人は二宮金次郎と三野村利左衛門」と門弟に語ったという。墓は三井連家の菩提寺、東京杉並区の天羅山真盛寺にある。

大蔵卿:明治初期における官職名のひとつで、大蔵省の長官。大蔵大輔は次官で、以下少輔、大丞と続く

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.11|2011 Summer より)