三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

幕府御用達と維新政府への支援

三井越後屋は、創業からほどなく幕府御用達を命じられることとなった。官との結び付きは越後屋の安定経営の基盤となったが、幕末の動乱期においては、佐幕でいるべきか、勤王に加担すべきか、大きな決断を迫られていた。

貞享年間(1684〜1687)における江戸・京都・大坂の三井越後屋各店は、既存呉服店の反発や抵抗を受けながらも旧来の商売の常識を覆すさまざまなアイディアを駆使し、売り上げを拡大していった。そしてこの時期、三井越後屋は呉服と両替の両分野で、幕府と結び付いていく。

貞享4年(1687)、当時五代将軍綱吉の御側衆であった牧野成貞(なりさだ)(下総関宿藩主)より声がかかり、御納戸呉服御用の役を引き受けることになった。御納戸とは、江戸城大奥にあった部屋のひとつで、着替え部屋や化粧部屋として用いられていたという。その呉服御用達となったのである。

このことは、創業以来続いていた他店からの営業妨害が解消されるという大きな効果をもたらした。江戸本町一丁目に最初の呉服店を開業(延宝元年/1673)してから14年、駿河町に移転(天和3年/1683)してから4年目のことである。

為替御用の拝命

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御為替御用達三井次郎右衞門判鑑

御為替御用達三井次郎右衞門判鑑(公益財団法人 三井文庫所蔵)

それからほどなく三井越後屋は、幕府から為替の御用も引き受けることとなった。元禄3年(1690)、江戸の奉行所より駿河町の両替屋に「大坂御金蔵銀御為替御用を希望するものは名乗り出よ」というお達しが発せられた。その募集に対し12名が応じ、三井からは2名が御用引受を申し出たのである。

大坂御金蔵銀御為替御用とは、幕府の金蔵である大坂御金蔵に集まった何万両もの銀貨を受け取り、それを60日後(すぐ後に90日期限)に江戸の御金奉行に上納することである。これまでは現金を東海道経由で送金していたが、それを為替によって行おうというのである。大坂で受け入れた金銀は、江戸での上納期限まで60日〜90日あるので、その間に運用すれば大きな利息を計上できる。この為替の御用によって、三井越後屋は多大な利益を受けることになった。御用引受を根幹とした三井の両替店は呉服店から独立し、大坂高麗橋に出店。やがて大きな成長を遂げることとなる。

その後の江戸中期における三井越後屋は順調であった。元禄7年(1694)に家祖三井高利が没するが、高利の子どもたちは長男高平を中心によく結束し、宝永7年(1710)に大元方を設立。家制と越後屋の経営を一元化して組織をより強固なものとした。享保7年(1722)には『宗竺遺書』が制定され、三井家と事業が強く統制されるようになった。以後、幾度か大火に見舞われたり、三井家の内紛があったりしたものの、江戸後期まで経営的には比較的安定していたといえよう。

しかし、天保年間(1830〜1844)頃からは、天候不順による大飢饉(ききん)をきっかけとした大塩平八郎の乱などが起こり、徐々に世の中が争乱の様相を帯びてくる。嘉永6年(1853)には浦賀にペリーが来航し、やがて横浜が開港した。それに伴う日米貿易の進展は国内織物業に大きな打撃を与えたのである。糸絹市場において生糸の価格はどんどん上昇し、三井越後屋本店の経営を圧迫していった。また、倒幕の機運によって世上は不穏な空気に包まれ、特に京都の秩序はほとんど失われた。こうした動静によって両替店経営も不振に陥っていった。

倒幕に加担する

江戸末期、倒幕のうねりによる社会の混乱は、慶応3年(1867)10月14日の大政奉還によって一時収束に向かうかに見えた。しかし、薩摩の大久保一蔵(後の利通)や西郷隆盛、公家の岩倉具視らはあくまでも武力による倒幕を主張。同年12月9日に王政復古のクーデターを起こして新政府を樹立し、前将軍徳川慶喜に対して辞官納地(慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄)を命じた。これによって倒幕勢力と幕府側との緊張が増し、翌慶応4年(1868)1月3日の鳥羽・伏見の戦いを発端とする戊辰戦争へと発展していく。

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  • (上)鳥羽の戦い絵図 (下)伏見の戦い絵図

    (上)鳥羽の戦い絵図。左側が旧幕府軍で右側は薩摩軍
    (下)伏見の戦い絵図。左側は会津を含む旧幕府軍で右側は長州軍。両軍ともかなり近代化されていることがわかる。この開戦前夜、三井はその後の進むべき道を決めた

こうした幕末の混乱期、三井越後屋の江戸と大坂の店は佐幕の中心地にあり、また、京都の店は勤王の真っ只中となっていた。元禄以降これまで越後屋は、呉服業にしても両替為替業にしても幕府との密接な経済関係を築いてきたが、一方で京都と大坂の店は幕末の一時期、琉球通宝の引替えを通じた薩摩藩との交渉があった。両陣営と金銭的な深い関わり合いを持っていただけに、越後屋の立場は微妙であった。

しかし、両陣営の中枢に通じていたことは、戦いの趨勢(すうせい)を推し量る点で幸いした。三井越後屋が保身を図るためには混沌とした政局を素早く見極めなければならず、それには敏速で正確な情報収集が不可欠だったからである。その役割を担って活躍したのは、当時の三井総領家(北家)の若主人、三井高朗(たかあき)であったという。

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三井高福、高朗親子

三井高福(たかよし/左)、高朗(たかあき)親子。薩摩藩家老小松帯刀や西郷隆盛らに通じ、幕末時に三井の進路を示した(公益財団法人 三井文庫所蔵)

三井越後屋が倒幕側に加担する方向へと大きく舵を切ったのは、鳥羽・伏見の戦いが勃発する直前であった。入京した薩摩藩の軍隊は軍資金がまったく不足していたといわれる。そこで三井に千両の軍資金調達の依頼をする。高朗はこれを受け、配下に命じて京都中の両替屋から現金をかき集めて求めに応じた。鳥羽・伏見の開戦前夜のことであったという。その後三井越後屋は、財政基盤が不安定な新政府の東征軍の戦費調達にも大きな役割を果たしていく。

維新後、近代において三井財閥が大きく発展できた理由のひとつに、維新政府(=倒幕派)の成立に寄せた功績があったことは否定できない。しかしながら、呉服業としての越後屋は、明治以降時代から取り残されていく。洋服が広く流通するようになって需要が減り、やがて明治5年(1872)には三井大元方から切り離され、後に三越として独立。日本初の百貨店として再生し、現代に至っていることは周知のとおりである。

(三井越後屋物語・完)

(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.10|2011 Spring より)