三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

駿河町の発展から三都における基盤を築く

江戸に呉服店、京都に仕入店を開業してスタートした三井越後屋は、その後元禄初頭(1688〜)にかけて商都大阪への進出を果たすなど、急速に経営規模を拡大していく。その原動力となったのは、もちろん三井高利とその息子たちの息の合った活動にあるが、特に高利の商売に対する集中と矢継ぎ早に発する施策は斬新かつエネルギーに満ちていた。

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三井越後屋京本店跡

三井越後屋京本店跡。三井京都創業の地として、現在は記念庭園が築かれている(撮影/真嶋和隆)

高利の父、高俊はもっぱら連歌や俳諧をたしなんだという。しかし、高利はそうした趣味・道楽にまったく興味を示さず、「遊芸に気を入申事無之、一生商の道楽に思召候事(遊びや芸事に心を奪われることなく、商いそのものを一生の趣味として過ごす)」といわれたように、ひたすら商いの道を邁進した。商売に対する集中は合理的な経営態度となって表れ、子どもたちや手代らには、諸経費の節減を促し、投機的な商売をしないよう戒めている。

高利はまた、経営を支える土台としての奉公人を重視し、「元〆手代器量善悪見立(手代の質を見抜き、身許のはっきりした者を雇用すること)」が大事と考え、経営上意思の疎通が十分なされることに留意した。延宝元年(1673)の江戸店開店にあたり、高利は手代に宛てて25カ条に及ぶ申し渡しを行っている。この中で、販売上の主要な注意点を抜粋すると次のようなことである。

1・武家屋敷などへの売り掛けの禁止。もし売り掛けにした場合は、担当の手代の小遣い高に付ける。

2・商人売りの場合、規定の精算日に精算できない客に売ることの禁止。これは取引前の客にはっきり伝えること。

3・手代が博奕(ばくえき)などで売上高を増やすような行為の禁止、等々。

また、商売上の注意ばかりでなく、勤務や協議の仕方を定め、生活上の規律も厳しく要求した。一方で、まじめに精進する手代たちに対しては半年ごとに報告させ、それが2年続いた者には褒美を与えるなど「正当で温かい待遇」を行った。見事なリーダーシップとはいえないだろうか。「現金(現銀)店前(たなさき)売り」や「反物の切り売り」といった商売上の斬新なアイディアが注目されるが、高利のこのようなリーダーシップによる一族や手代相互間の結束、組織力が強固なバックボーンとしてあったからこそ、その後の三井越後屋は盤石の発展を続けることができたといえよう。

駿河町店の賑わい

他店からの妨害(前号参照)を避けるために本町一丁目の店が駿河町に移ったのは天和3年(1683)のことである。次いで、翌年には本町二丁目の店も駿河町の店に合流した(三井越後屋は本町一丁目の開店後、ほどなく二丁目に支店を出していた)。

このとき、駿河町店は呉服店に両替店を併設している。その理由は、当時駿河町に両替店が多く集まっていたからである。本町の三井越後屋が駿河町に移転するのは、「両替屋計(ばかり)之(の)町(まち)江(へ)呉服店を引入候事油ニ水の交候様(両替店ばかりの町に呉服店が入るのは油に水が交じるようなもの)」と揶揄されたほどであった。そこで、三井越後屋が駿河町に仲間入りするためには、呉服ばかりでなく両替業務も営むことが良策と考えられ、一種の地域対策として両替店が併設されたのである。しかし、この両替店は、後に呉服店から自立して大きく成長することになる。

両替店についてはいずれ触れることになるが、ところで駿河町に移転した三井越後屋の開店は、周辺に次のような引札(ひきふだ)(宣伝ちらしのようなもの)を配って賑々しく行われた。

この引札によれば、越後屋はこれまでの「現金安売り」の商売に加え、それをさらに推し進める形で「掛直(かけね)(値)なし」という正札販売の方針を打ち出している。「掛直」とは、商売において値切られるかもしれない前提のもとに、あらかじめ高めに設定した値段をいう。つまり、正札において「現金安売り掛直なし」ということは、「うそ偽りのない正当な価格で、しかも安い」ということを宣言しているわけである。これまでにない斬新な価格表示の仕方であった。また店頭での販売では、顧客の多様な要求にも応じられるように製品別に専属の担当者を配置した。

このような施策が奏功し、駿河町の三井越後屋は人々からの信用が高まるとともにますます賑わっていった。

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  • 三都越後屋本店絵図

    三都越後屋本店絵図。左から京都、江戸、大阪の各店。それぞれに規模の大きさがうかがえる(公益財団法人 三井文庫所蔵)

大阪への進出

江戸の繁盛に伴い、仕入方の京都店も手狭となり、当初蛸薬師(たこやくし)に設けた最初の店を移転して拡大した。また、西陣織を仲買人を経由せずに直接買い入れる店も新設した。この直買店は「上之店(かみのたな)」という。これまで織屋と呉服店の間では現金売買が行われ、その意味で両者の立場は対等であった。

しかし、上之店ではこうした現金決済の取引を超え、「先金(さきがね)廻し」という前貸しによる西陣織物の買い付けが行われた。つまり、支払いを先にしてしまうために、織屋よりも呉服店の立場が上位になるわけである。上之店の設置は、三井越後屋の単なる規模の拡大を意味するのみならず、西陣の織屋や仲買商の経営を支配下に組み込むような意味をもたらしたといえよう。

こうして江戸・京都の店舗の移転や増設に伴い三井越後屋の営業機構、組織整備はさらに強化されていったわけだが、となれば、次は江戸・京都と並ぶ商都大阪への進出であろう。元禄3年(1691)、江戸の日本橋一帯に相当する繁華街の大阪高麗橋一丁目に土地を買い入れ、呉服店を開いた。一説には、貞享年間(1684〜1687)から大阪で「江戸駿河町出店」を開いていたともいわれるが、これについては定かではない。

大阪への進出においても地元の呉服店による三井越後屋排斥運動が起こりかけたが、ほどなくそれは収拾されている。こうして三井越後屋は三都にまたがる営業基盤を確立し、その後の大成長の礎を築いたのである。

(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.9|2011 Winter より)