三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

三井グループ企業の原点『三井越後屋物語』―前編/雌伏の時代から江戸進出へ

松阪で家業を継いでいた三井高利にとって、江戸に事業進出することは宿願であった。やがて時期が到来し、日本橋本町一丁目に自身の呉服店を開いたのは今から337年前の延宝元年(1673)。ときに高利は52歳という、当時としてはかなり高齢になってからの新事業スタートであった。

三井高利が初めて江戸の地を踏んだのは、14歳のとき(寛永12年/1635)である。江戸本町で呉服商を営むお店(たな)に奉公するのが目的であった。江戸の、それも日本橋という中心地での華やかな商いの風景は、まだ年若い高利に「いつかは江戸で独立し、自分自身の店をもつ」という大きな夢を与え、やがてその夢は高利の宿願となっていった。

高利は、奉公に出ると丁稚からたたき上げ、徐々にその才能を開花させていった。18歳になると、今でいう支配人として一軒の店をまかされ、やがて周囲が目を見張るほどの商才を発揮しはじめていった。

この時期、高利の商人としての成長は順調であった。独立する夢も、少しずつ手の届くところに近づきつつあったようである。ところが慶安2年(1649)、郷里松阪で老母殊法(しゅほう)に奉仕していた小兄が病死したという報せが入り、それをきっかけに高利は江戸の店を辞して帰郷することになったのである。奉公に出てから14年目、28歳のときであった。

とはいえ、高利は江戸に店を出す夢をあきらめたわけではなかった。郷里に戻った高利は妻かねをめとり、やがて多くの子宝に恵まれていく。松阪での家業を拡張し、商業に加えて金融業を営み、多くの資金を蓄積していった。

高利は、自分の子どもたちが育ってそれぞれが15歳になると、男子は江戸の商人のもとに送って商売を見習わせた。また、知り合いの中で眼鏡にかなった若者たちも、手代見習いとして江戸に送り込んでいった。それはまさに布石であった。高利は郷里松阪で、いずれ江戸で雄飛する日が来るときのための基礎固めを着々と行っていたのである。

江戸進出の時期到来

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高利が越後屋八郎衛門を開店した当時の日本橋

高利が越後屋八郎衛門を開店した当時の日本橋。「するが丁」に現在の三越がある

高利が郷里に帰って23年目の寛文12年(1672)のこと。江戸で奉公している長男高平から、独立して呉服店を開業したいという内容の手紙が送られてきた。息子らも商人として順調に成長し続けている。高利はこの手紙から、いよいよ江戸進出の時期到来と感じたに違いない。そこで直ちに準備資金を送金するとともに、高平に命じて江戸随一の呉服店街である江戸本町一丁目に店舗を借り受けさせた。同時に高利は京都に向かい、室町蛸薬師(たこやくし)にやはり小さな店を借り受けた。呉服の仕入れ店とするためである。そして、江戸から高平を呼び寄せて京都店の責任者とした。

江戸に借りた店には、「越後屋八郎右衞門」の暖簾(のれん)を掲げ、次男の高富に差配させてすぐさま呉服業を開始した。「越後屋」の屋号を用いたのは、元は武士であった高利の祖父三井高安が越後守を名乗り、父高俊が松阪で営んでいた店も「越後殿の酒屋」と親しまれていたからである。

手代見習いとして江戸に送り込んでいた若者たちも成長し、「越後屋八郎右衞門」に合流した。そして、高利自身は松阪の地で采配を振るい、江戸や京都の現場にいる息子たちにさまざまな指示を発していった。帰郷してから24年目、初めて江戸の地を踏んだときから数えると、38年目の新たなる出発であった。

長い雌伏(しふく)の時代が終わり、こうして高利の宿願は叶った。しかも、当時の江戸は三代将軍家光の時代となり、徳川の治世がようやく安定して急速に発展していく途上であった。時代背景的にも、この時期の事業スタートはいいタイミングだったといえよう。

越後屋の数々の商売新機軸

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駿河町越後屋正月風景図

駿河町は富士山と江戸城を真正面に見通せたという。その駿河町で大繁盛する三井越後屋の様子は多くの浮世絵に描かれている。通りをはさみ、向かって左側の建物が現在の三越、右側が三井本館の位置に概ね相当する(駿河町越後屋正月風景図 鳥居清長筆 三井記念美術館所蔵)

だが、経験を積んだ人員を配置して商売をスタートさせたとはいえ、当時の江戸にはすでに老舗大店(しにせおおだな)が幾店も軒を連ねていた。その中に、新参の小さな店がいきなり割り込んだのである。通常ならば、簡単に立ち行く道理はない。しかし高利にとって、そのような難局は想定済みだったのではないだろうか。次々に打ち出して行く新商法・新機軸は、斬新かつ巧妙がゆえに戦略としてあらかじめ十分に練り上げられていたようにも思われるのである。

その第一が、掛売・掛値を廃止して現金売買の制度を定めたことである。当時、呉服類は値の張る商品で、あらかじめ得意先を回って注文をとってから品物を持っていく「見世物商い」と、商品を得意先に持参して売る「屋敷売り」のふたつの方法が商いのやり方だった。しかも、支払いの慣習は盆・暮の二節期払い。そのため、貸し倒れや掛売りの金利などがかさみ、必然的に商品の値段が高くなっていた。そこで高利は掛売り売買を禁止し、「店前売(たなさきうり)」に改めたのである。商品の値段を下げ、正札をつけて現金売買を励行した。これが顧客の購買心をくすぐり、あっという間に店前は盛況をきわめていった。

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駿河町に移転後の越後屋の印

駿河町に移転後の越後屋の印
三井文庫刊「『三井事業史』本編第一巻」より

第二は、呉服の反物を切り売りしたことである。当時、呉服類の切り売りは同業者間で禁じられていたが、高利はこの慣習を打ち破り、大衆の大きな支持を受けた。業者間のしがらみの薄い新参だったからこそ、慣習を打ち破ることができたのかもしれない。ただ、それによって保守的な同業者から反感をもたれたばかりでなく、さまざまな営業妨害も受けた。手代の離反が画策されたり、店先に糞尿をまかれたり、ずいぶんひどいことがあったようである。

そこで、難を逃れるために、密かに駿河町に普請して本町一丁目から店を移転した。これが後にさらなる大店(おおだな)へと発展していく、駿河町の越後屋の開店であった。その後も他店からの妨害は続いたようだが、越後屋が幕府の呉服御用達を命ぜられるまでに発展すると、さすがに妨害をするような同業者はいなくなっていた。

(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.8|2010 Autumn より)