三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

三井合名会社から現代へ。三井グループの組織変遷(2) 激動の近代を歩み、新たな三井グループへ

三井合名会社の設立によって、三井の事業は安定期を迎えた。明治・大正における日本国家の伸長とともに、三井も成長を続けていくが、やがて幕末時にも劣らぬ危機が訪れる。戦争、敗戦、そして財閥解体だ。しかし、それは今日に続く三井グループ誕生のきっかけでもあった。

江戸期から幕末の動乱を経て近代国家への歩みを始めた明治の日本。三井もまた、日本という国家と歩調を合わせるようにさまざまな組織の形態を模索しながら、明治42年(1909)、三井合名会社の設立により、こうした変革の時代の中でひとつの区切りをつけた。

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明治期の三井の繁栄を象徴する日本橋駿河町の旧三井本館

明治期の三井の繁栄を象徴する日本橋駿河町の旧三井本館。当時の三井の主要企業が入居していた。旧三井本館は関東大震災によって内部を消失し、その機能は現在に続く三井本館に受け継がれた
資料提供/三井不動産株式会社

合名会社とは、出資する複数の資本家がともに経営に参加していく企業形態である。そのため、それぞれの出資者の経営に対する考え方があまりにも異なっていると混乱をきたすため、どちらかといえば、お互いの信頼関係を基礎とした同族による企業経営に向いた組織といえよう。

三井合名会社の場合、出資者は三井11家に限定され、三井家以外の外部からの資本参加はなかった。三井合名会社は、欧米の財閥のあり方を参考にしながら江戸時代の「大元方」を近代的に改組したものとはよくいわれるが、確かに三井家のみによって運営されてきた大元方の機能を色濃く継承している。パブリックな法人ではなく、すでに発足していた旧三井物産、三井銀行、三井鉱山などの各事業体を統括する、コンツェルンの頂点に位置する三井家のための組織であった。

子会社に親会社を合併させる

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三井合名会社初代理事長の團琢磨

三井合名会社初代理事長の團琢磨。三井合名の発足時は三井高棟が社長に就任したが、その後ほどなく理事長制が採用された

大正から昭和初期にかけて、三井関連の事業規模は拡大の一途を辿っていた。昭和6年(1931)の満州事変以来、国内では軍事費の膨張によって一部に軍需景気が引き起こされ、石炭鉱業や金属鉱業、あるいは重化学工業などが伸長していった。旧三井物産や三井鉱山もアジア各地の占領地域に進出し、経営的には順風満帆であったともいえる。

しかし、日本全体から見れば深刻な不況が長く続いていた。そうした不満から、社会には要人を狙う不穏な空気も流れ、昭和7年(1932)3月、三井合名理事長の團琢磨が血盟団員の凶弾に倒れた。次いで5月に犬養首相が暗殺され、昭和11年(1936)になると二・二六事件が勃発。さらにその翌年は日中戦争と、日本は第二次世界大戦へと続く坂を転がり始めたのである。

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三井合名の改組という大事業を決断した向井忠晴

三井合名の改組という大事業を決断した向井忠晴。戦後は第4次吉田内閣で大蔵大臣も務めた

当時の日本経済に大きな位置を占めていた三井をはじめとする各財閥は、日本経済が戦時体制に移行することによって激増する資金需要への対応が強く求められた。しかし、旧来の合名や合資会社といった閉鎖的な組織では、それは不可能であった。しかも、三井11家のうちの6家に家督相続が起こっていて、高額の納税資金が必要という状況も重なっていた。このままでは、三井合名は莫大な持ち株を売却し続けなければならないという事態だったのである。

そこで当時の三井合名理事長向井忠晴は、旧三井物産に三井合名を合併させる、つまり子会社に親会社を合併させるという株式組織化案を決定する。こうして三井銀行、三井信託、三井生命という金融3社の株式を除く三井合名の資産は、三井家による現物出資の形で昭和15年(1940)、旧三井物産に引き継がれた。

財閥解体は新たな誕生の原点

しかし、三井合名を吸収したからといって、旧三井物産がそれまで同列に並んでいた三井鉱山などの三井各社をいきなり統括するのは立場上難しい。その点を考慮し、合併と同時に行われたのが三井総元方の設置であった。

三井総元方に法人格はなく、資本金もない。だが、三井総領家の三井高公を議長として直系主要会社の代表者を理事会で決定するなど統率力を備えていた。一方、旧三井物産は三井合名を吸収して納税資金の調達を図ったが、もともとその事業内容から機能が異なる法人同士が合併していたことで、機構上のさまざまな無理も顕在化してきた。そこで浮上してきたのが、旧三井物産を改組して名称を変え、会社目的を三井関係会社の統括を行うものとし、交易部門を分離して新たな会社をつくるという計画だった。こうして昭和19年(1944)3月に創設されたのが「三井本社」である。

しかし、この三井本社も2年半という短命で終わることになる。翌昭和20年(1945)8月に終戦となり、同年9月にはアメリカ大統領令で、「日本の商工業の大部分に支配力を有する大産業コンツェルンおよび金融コンツェルンを解体する」旨が明らかになったからである。

11月にはGHQから三井・三菱・住友・安田の4つの財閥本社の解体方針が公表され、昭和21年(1946)9月に三井本社は解散した。さらに、昭和24年(1949)には追い討ちをかけるようにGHQから三井・三菱・住友の商号と商標の使用禁止令も発せられた。それでも、三井各社は三菱や住友と共闘し、さまざまなルートを通じて商号・商標の護持運動を展開していった。そして、昭和27年(1952)4月のサンフランシスコ講和条約発効に伴う占領法規改廃によって使用禁止令は撤廃された。以後、戦後における三井グループの本格的な歩みが始まるのである。

占領軍の財閥解体令は、ある意味、新生三井グループの出発点ともいえよう。財閥同族支配力排除法が施行され、各社から財閥関係役員が排除された。戦後しばらくは苦難が続いたが、多くの三井系企業は株式を公開して一般大衆が出資できるようになり、三井グループは第2の誕生を迎えたのである。その後の三井グループの発展は誰もが認めるところである。(「三井グループの組織変遷」は今号で終了します)

年表

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。
(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.7|2010 Summer より)