三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

江戸時代から近代へ。三井グループの組織変遷(1) 大元方を基礎に三井合名会社を築く

三井家の事業繁栄と存続。家祖高利の遺志を受け、子どもたちがつくり上げた最初のシステムが三井家大元方(おおもとかた)であった。以来、三井家と三井の事業を統括する組織は時代とともに変遷し、カタチを変えていく。しかし、根底に流れる資産の共有運用と、同族の一致団結の精神は変わることがなかった。

希代の商人、三井高利の晩年の悩みは、築き上げた巨万の富を15人の子どもたちにどのように相続させるかということであった。三井家の事業の成功は、高利の息子兄弟それぞれの分担協力に負うところが大きく、当時の慣行にしたがって長男のみに単独相続させるというわけにはいかなかった。とはいえ、分割相続は連携している各店舗の経営を分断し、後の三井家の事業の弱体化を招いてしまう。

結局、高利は息子たちに対して金額を明確に示すような財産分与は行わなかった。妻と他家に嫁いだ娘の分を除いた残りの総遺産を70という数字で表し、長男以下兄弟に配分の数字を示し、それを元手金として「割り付けておく」と結んだだけの簡単な遺言を残した。

これに対し、配分を受けた息子たちも「自分たちはこれまでどおり身底一知(しんだいいっち)のまま財産を分け取ることをしない」という証文をつくり、今後も三井家はひとつという一致団結の意志を表明したのである。これは、いわば父高利の薫陶を受け、高利とともに歩んできた兄弟たちだからこそ持ち得た信念であろう。

家業から組織へ。大元方の設置

しかし、その次の世代、さらに次の世代となれば、そうした情念は薄らいでいく。早くに高利の遺志を制度化し、恒久的なものとする必要があった。やがてそれは「宗竺遺書」(前回コラム『同苗結束のシンボル、「宗竺遺書」の制定』参照)に示された家法として結実する。そして、その家法制定の前に行われたのが、宝永7年(1710)正月の京都における「大元方」の設置であった。

本誌では幾度か大元方について簡単に記述しているが、今回はもう少し詳細にわたってこのシステムに触れてみよう。

大元方とは、一言でいえば三井全事業の最高統制機関である。三井家の資産をすべて大元方に集中させ、各営業店舗の「元建(もとだて)」(資本金)を定めて出資し、必要な運転資金についても貸付する。一方、各店舗は資本金と営業利益に応じて指定される額の「巧納銀(こうのうぎん)」(納付料)を大元方に納め、また貸付金の利子も払う。三井同族の「賄料(まかないりょう)」(生活費)はこの大元方から支給されるが、それは利益配当金ではなく、家格によって定められた額であった。

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大元方の寄会帳

大元方の寄会帳 資料提供:(財)三井文庫

大元方の最大の収入は営業店舗からの「別途納付金」であった。これは「三年勘定臨時納」と呼ばれるもので、各営業店が毎期の決算で所定の納付金を大元方に納めた後に残る利益金を店にストックしておき、3年おきに決算して9割を大元方に納入する。残りの1割はそれぞれの店の店員にボーナスとして支給された。その額は、それぞれの店の営業成績に準ずるわけだから、店員にとっては仕事に対するモチベーションを高めるよい材料でもあったことだろう。

ちなみに、この「三年勘定臨時納」も三井家の一族に配当されることはなく、大元方に蓄積し、さらなる家産増殖の資本とされた。三井家の家産を管理して運用し、決算の監査や経営指導、主要人事の決定など経営全体を掌握すると同時に、三井同族の私生活まで三井のすべてを一元的に管理する強大な権限を大元方は備えていたのである。大元方の設置によって、三井家はより健全な企業体に昇華したのだといえよう。

三井合名会社の設立で組織の基礎が磐石に

実務における大元方の機能と宗竺遺書の精神によって三井の事業は安定し、日本全国に商圏を広げて発展を続ける。しかし、江戸末期においては強制的に割り当てられた幕府・大名の高額な御用金など貸付金の固定、また不良債権の増大などによって流動資金が極端に減少していった。運用資金の融通をとおして各営業店の経営を統制する大元方の機能は、この時期ほとんど失われていたのである。そこに黒船来航による国内不安が業績悪化に追い討ちをかけた。

幕末の動乱時、東西の動向をうかがっていた三井家が勤王派支持の行動を開始したのは、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の合戦直前であった。そのとき薩摩藩陣屋に軍資金を供出したといわれるが、三井家にとっては大きな賭けであったことだろう。維新後、三井家が小野家、島田家とともに新政府の財政を担当し、明治4年(1871)に新貨幣の兌換(だかん)業務で為換座三井組が単独指名されるなど新政府に優遇された要因は、もちろん三野村利左衛門をはじめとする三井重鎮の奔走によるところが大きいが、幕末に勤王派支持を表明したこともまったく無縁ではなかったと思われる。

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明治の初期、渋沢栄一邸を訪問した三井首脳

明治の初期、渋沢栄一邸を訪問した三井首脳。左より手代の永田甚七、同じく斉藤順造、北家8代高福、北家9代高朗、渋沢栄一、小石川家7代高喜、そして三野村利左衛門 資料提供:(財)三井文庫

そして、急を要する政府との折衝が増大したため、京都の大元方の機能の多くは東京に本社を置く三井組大元方に継承された。三井銀行などの創立も、すべて東京の三井組大元方によって行われた。

明治の半ばは、わが国における資本主義の形成期といえる。この時期、三井の企業も急速に発展を遂げるとともに、統一的な経営管理機構の整備が必要とされるようになっていた。そこで明治26年(1893)に、当時の三井家最高議決機関である「三井家同族会」が設立された。また、同じ年に三井組を「三井元方」に改称し、明治29年(1896)には統括議決機関として「三井商店理事会」を発足させた。

そして明治33年(1900)に「三井家憲」が制定され、明治35年(1902)には三井家同族会と三井営業店重役会とを仲介する「同族会管理部」が設置された。これらを経て、明治42年(1909)、三井の組織整備は「三井合名会社」の設立によって一応の完成をみる。明治以降、同社の設立により近代における三井グループの組織的な基礎が築かれたといえるだろう。

三井合名会社は欧米の財閥組織のあり方を参考にしてはいるが、かつての大元方を近代の事情に合わせて持株会社に改組したものでもある。三井グループの組織運営のルーツは、やはり江戸時代の三井草創期につながっている。

年表

(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.6|2010 Spring より)