三井の歴史

三井広報委員会
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コラム「三井を読む」

商いの精神と富を生み出す知恵 松阪の地で育まれた三井の心

三井グループの祖、三井高利は元和8年(1622)、現在の三重県松阪市に生まれ、14歳で江戸に奉公に出るまでをこの地で過ごした。その商才はもちろん天性のものだが、当時の松阪の地域性と家庭環境があってこそ育まれた。今も松阪市に残る高利生家跡地を探訪し、高利の時代に思いを馳せてみよう。

三井越後屋の屋号は、高利の祖父である三井高安が越後守(えちごのかみ)を名乗っていたからといわれる。

高安は、もとは近江の国鯰江(なまずえ)の武士であった。守護大名の六角氏(近江源氏と呼ばれた佐々木四家のうちのひとつ)に仕えていたが、六角氏は永禄11年(1568)に織田信長の上洛軍と戦って敗れ、逃亡する。六角氏とともに信長と戦った三井高安も、やむなく伊勢の地に逃れていき、それが後の三井と松阪の縁となった。

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松阪にはさまざまな史跡が

松阪にはさまざまな史跡が。御城番という城を警護する武士の住む屋敷は今も使用中

松阪は、高安が伊勢に逃れてから20年後の天正16年(1588)に、蒲生(がもう)氏郷(うじさと)が開いた町である。

氏郷の父、蒲生 賢秀(かたひで)も高安と同じく六角氏の家臣であった。しかし、六角氏が信長に敗れたとき、賢秀は信長の家来になって生き延びる道を選択した。そして恭順(きょうじゅん)を示すために、嫡男(ちゃくなん)の鶴千代(氏郷の幼名)を人質として信長に差し出した。

鶴千代は、文武あらゆる点で優れた才をもっていたといわれる。信長は鶴千代の非凡さを見抜き、その才を愛した。重用して小姓に用い、やがては娘の冬姫を妻として与えたほどであった。

信長の死後、秀吉に仕えて松ヶ島12万石を封じられると、氏郷は伊勢の四五百(よいほ)の森と呼ばれる地に城を築き、その地を「松阪」とした。町の命名の由来については、幼名が鶴千代の氏郷は鶴と松が大好きで、松ヶ島の「松」に秀吉の町の大阪から「阪」の一字を取って松阪にしたといわれる。

近江商人の心得は「三方よし」

氏郷は、商業の発展に力を注いだ武将であった。商業こそが町の発展のエネルギーと考え、自分の郷里である近江の国から有力な商人をどんどん連れて来て松阪に住まわせた。あるいは、氏郷の人柄に引かれて多くの近江商人が松阪に移り住んだともいわれている。

他国で行商を行う近江商人の商売の心得は、売り手よし、買い手よし、世間よしという「三方よし」である。商売の取引は、当事者だけでなく世間のためになるものでなければならないというこの哲学は、三井越後屋の精神のひとつでもあった。三井の商道にも、氏郷の施策で松阪に定住した近江商人の心得が浸透していったのかもしれない。

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旧家長谷川邸

旧家長谷川邸。古きよき松阪が偲ばれる。三井高利生家跡地はこの正面

氏郷はまた、当時海岸寄りにあった伊勢神宮への街道を町に引き込み、松阪に宿場町としての機能も持たせるなど、町の活性化を図っていった。

このようにして松阪の基盤は築かれ、また横溢(おういつ)する商都としての気風により、武士から商人になるものも多くいた。伊勢に逃れた高安の子、三井則兵衛高俊もそのひとりである。

高俊はこの地で質屋を営み、また酒や味噌、醤油の商いをした。司馬遼太郎の『歴史を紀行する』には次のような一節がある。

「人呼んで越後殿の酒屋という。越後屋の屋号、ここに濫觴(らんしょう)す」

三井の商道の原点は松阪の生家跡地に

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生家跡地には、巨大な門だけが今に残されている

生家跡地には、巨大な門だけが今に残されている。「越後殿の酒屋」時代にはどのような家の構えだったのだろうか

ところで、高俊の妻(高利の母)は殊法(しゅほう)といい、伊勢の大商家の娘であった。また、高俊の妹は、松阪で経済的権力を握っていた蔵方に嫁いでいる。このような縁組みができたということから、この時点で三井家には多少の資産があったということが想像できる。

高利は三井グループの祖と呼ばれるが、無から商売を始めたわけではない。母親の殊法は非常に聡明で、当時の「越後殿の酒屋」を実質的に支えるほど商才に長けていた。大変な倹約家である一方、お客に対してはサービス精神が旺盛で、誠実であったといわれる。4男4女の末っ子として生まれた高利は、おそらく母の殊法が商人として最も輝いていた時期に、その背中を見て育ったのだろう。

さまざまなアイディアを駆使し、倹約に努め、遊芸に興味を示さず商売一筋の生涯を送ったのは、紛れもなく殊法の影響といえよう。松阪の「越後殿の酒屋」は、高利にとって商道を学んでいく上で大変恵まれた家庭環境であると同時に、飛躍していくスタート地点でもあった。

約400年前に高利が育った三井生家の跡地は、今も松阪市内に残る。戦後しばらくは、雑草が伸び放題のかなり荒れた状態だったそうだが、現在は隣家のM口農園の手入れにより、きれいに保たれている。三井の商道、三井の精神、三井の発展、その原点が、松阪のこの場所にある。

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    生高利の祖父母、父母の五輪塔

    高利の祖父母、父母の五輪塔。1956年に松阪市内の来迎寺から移された

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    高利が生まれたとき、この井戸の水で産湯をつかったといわれる

    高利が生まれたとき、この井戸の水で産湯をつかったといわれる

  • M口農園社長のM口敏祐さん

    M口農園社長のM口敏祐さん。荒れた三井生家跡地を見るに見かねて、M口さんの母上が雑草取りなどを始めたのだという。三井家にまつわる話をいろいろうかがった

  • 跡地を訪れた人々の芳名帳

    跡地を訪れた人々の芳名帳。三井各企業の歴代の重鎮の記名がある

撮影:真嶋和隆 取材協力:M口敏祐さん(M口農園)

(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.3|2009 Summer より)