明治43年(1910)10月、第10代三井総領家当主・三井八郎右衞門高棟が
團琢磨と共に欧米諸国に視察旅行した時、文化・文物と共に欧米諸国の名家が賓客接待用施設、迎賓館を備えていることに、高棟は強い感銘を受けました。そして日本における三井家でも迎賓館の必要性を強く感じたのが、倶楽部建設の理由だといわれています。
帰国した高棟は、迎賓館を建設するため、用地探しを始めました。しかし建設に必要な広大な用地は、なかなか見つかりません。最終的には、視察旅行に一緒に行った
團琢磨が居住したいと思っていた三田綱町の土地を譲り受け、イギリス人ジョサイア・コンダー(コンデル、コンドルとも表記)設計による「
綱町三井別館」(当時の名称)の建設が始まりました。
綱町の「綱」という名称は、清和天皇から5代目・源頼光の家来、渡辺綱(わたなべのつな)が産湯をつかった井戸があったと言い伝えられたことから、由来しています。 現在の三井倶楽部周辺の土地は、江戸時代の島津藩の支藩である砂土原藩の藩邸があったと伝えられています。その後、三井物産顧問を経て、ハワイ王代理大使になったロバート・アーウィンが公使館を建て、最後に團琢磨が居住用に予定していました。
当時、日本では皇室も含め、賓客接待用の迎賓館を所有する家は殆どありませんでした。三井家も明治27年に東京・有楽町に設置した「有楽町三井集会所」を持つだけでしたが、この集会所は通常の日常的な集まりにも使用されており、本格的な迎賓館としては「綱町三井別館」が日本で最初と言っても過言ではありません。現在、三井グループをはじめ多くの人々が利用している「綱町三井倶楽部」の成り立ちは、三井家の賓客接待所だったのです。