三井広報委員会 トップページへ
三井広報委員会について 会員企業紹介 三井ゴールデン・グラブ賞 三井にまつわる施設 三井の歴史
三井の歴史
HOME > 三井にまつわる施設 > 霞が関ビルディング
真如堂
綱町三井倶楽部
三井文庫
三井記念美術館
三井記念病院
霞が関ビルディング
日本で最初の超高層ビル「霞が関ビルディング」
三井不動産の所有である日本で最初の超高層ビル 「霞が関ビルディング」(東京都千代田区霞が関)。
昭和40年3月18日に起工、41年10月4日に立柱、42年4月18日に上棟し、43年4月18日にオープンしました。高さ147メートル、地上36階・地下3階、敷地面積1万6,319.97平方メートル、延床面積15万3,223.69平方メートルのビルです。
三井建設と鹿島建設のジョイントベンチャーで施工しました。
地震への対応を考え、“柔構造”を基本にした動的設計法を用いたのが最大の特徴です。
計画延期で超高層ビルが誕生
現在、霞が関ビルディングが建っている敷地の一画には、東京倶楽部が経営している旧東京倶楽部ビルがありました。一部を貸ビルにしていましたが、もっと土地を有効に利用しようということになり、東京倶楽部の希望を聞き、三井不動産が新築の計画を進めました。6,409平方メートルの敷地いっぱいに9階建てのビルが建つことに決まりました。その頃の高さ制限は31メートルで、9階が限度だったのです。しかし、いざ着工となった昭和36年10月、政府から着工を延期するようにとの勧告がありました。国際収支の悪化による金融引締対策がその理由でした。建設計画はストップしましたが、その延期が、超高層ビルを誕生させることになったのです。
旧東京倶楽部ビルの北隣りにある霞会館(旧華族会館)と話が進み、霞会館の敷地も合わせて、土地の有効利用をすることになったわけです。最終的に、敷地を合計すると1万6,326平方メートル(約5,000坪)になりました。また、昭和37年8月に、建設大臣により、ビルの高さ制限が撤廃されたのです。超高層ビルへの夢はいっきに具体化しました。 昭和40年 (1965) 竣工当時
昭和40年 (1965) 竣工当時
どうして36階?
その答えは、三友新聞の昭和43年4月18日号の「霞が関ビル完成の意義」と題した座談会で、故江戸英雄三井不動産社長(当時)が語っています。引用しましょう。「約5,000坪のうち約70%の空地をとってビル環境を良くし、これは過密化した東京の再開発の問題につながるわけですが、充分空地をとって残った敷地にビルを建てる。超高層ビルの基準階の面積は約1,000坪ありますが、これを理想的に設計した結果、36階建てが一番良いことになったのです。(中略)宣伝のためとか、奇を衒うために36階建てを建てたのではありません」。昭和39年8月24日、建設省告示により「東京都都市計画霞が関3丁目特定街区」に指定され、建設は決定しました。

なにしろ初めての試みですから、ビルの建設についてのデータが不足し、建設資材についても未知のことばかりでした。三井不動産、山下寿郎設計事務所、三井建設、鹿島建設という施主、設計、施工者で構成された建設委員会が中心となり、専門研究者、建設資材メーカーも協力して、数々の難問題を解決していきました。その結果、竣工した昭和43年4月の時点で、柔構造の壁体構造、タワークレーンのクライミング工法など特許取得や出願中のものは合計約40件に及びました。
地震、台風、火災のための工夫
耐震設計として“柔構造”を採用。柔構造とは、わかりやすくいえば地震に強い五重の塔のような構造です。五重の塔は、木造建築ですが、柱と梁を複雑に組み合わせ、地震の時には柱がゆらゆらと揺れ、地震の力があちこちに分散するようになっているのです。柔構造を鉄骨で実現したのが霞が関ビルなのです。
その反対の“剛構造”は、建物を高くすればするほど柱を強くするために、地震の時に柱に負担がかかり、14、15階が限度になります。

この柔構造の理論を提唱したのが武藤清博士(当時鹿島建設副社長、東大名誉教授)です。三友新聞の昭和43年4月18日号の「地震と霞が関ビル」のインタビューで、武藤博士は柔構造についてこう説明しています。「地震の周期と建物自体の固有振動周期とが近いと、音の共鳴に似た共振の作用が起きて、強い破壊力が作用します。霞が関ビルは東京礫層の固い岩盤の上にありますが、固い地盤では周期の短いシャープな地震が起こります。そこで、固定周期の長い“柔構造”の建物は周期がずれているので、作用する破壊力が小さく安全だということになります」。

このような耐震構造の実現には、強震計によって地震そのものがわかるようになったことと、コンピュータによる解析計算ができたことがあげられます。また、建築技術と資材の進歩も超高層ビルの耐震性を可能にしたわけです。

日本初の高層ビル
「霞が関ビルディング」
  風圧に対しては、石川島播磨重工業の大型風洞で実験を行いました。秒速82.5メートルの風にも耐えられるような設計がなされました。ビルの外装には、カーテン・ウォールを採用しました。これは、アルミニウムやステンレスなどの枠、壁、ガラスをカーテンのように上から吊す方法です。もちろん窓ガラスは特別に厚いものを作りました。
  火災の対策については、鉄骨のまわり、コアまわり、天井、床、間仕切り、壁などすべて不燃材を使用しました。1階以上の全階に煙感知器を設置し、同じビルの防災センターに知らせ、早期消火を心がけ、また、万が一の火災に際しては、強力な排気扇により、煙を強制排気させるシステムを作りました。これらの対策は、現在では当たり前になっていますが、日本で初の高層ビルでの安全対策として、注目すべきものです。
新技術の開発
日本初の超高層ビルである「霞が関ビルディング」は、三井不動産、山下寿郎設計事務所、三井建設、鹿島建設が建設委員会を構成し、建設資材メーカーと協力して新技術を開発しました。

地上36階・地下3階、高さ147メートルのビルを建てるのですから、合理的な作業が要求されます。どこの階にどれだけの資材が必要で、人員は何人いるのかなど、工程管理をコンピュータで行いました。建材は工期を短期間にすることや、軽量化のため、新しいものを数多く導入しました。

霞が関ビルディングの骨組は、地震に強い柔構造方式による純鉄骨構造です。主材には大型H型鋼が採用され、全素材量の75%を占めました。ちなみに、霞が関ビルに使用された鉄骨は約1万5,000トン、鉄筋約8,000トン、デッキ・プレート約1,700トンです。H型鋼は生産性に優れているので使われました。また、H型鋼のために東芝が機械を開発し、6センチの厚さの鉄骨に1,000分の5ミリも狂わないボルトの穴が開けられました。また、デッキ・プレートを鉄骨建設中の直下階の全面に敷き、高所での作業の不安を無くし、工事の安全を保ちました。

マスコミにも大反響
マスコミに取り上げられた記事を広告費に換算すると、当時10億円を上まわると言われていました。工事現場を訪れる一般の見学者も多く、昭和42年2月から8月にかけて、月平均3,000人となりました。国内で注目されただけではありません。霞が関ビルディングによって、日本の建材が高水準に達したことが、世界に示されることになったのです。
なお、本文は、「超高層ビル」(石田繁之助著、中央公論社刊)、「超高層ビルのあけぼの」(武藤清・岩佐氏寿共著、鹿島出版会)を参考にしました。
COPYRIGHT:© The Mitsui Public Relations Committee. all rights reserved.