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三井の歴史にまつわる施設

三井本館執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井不動産

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ローマ風の威風堂々たるコリント式大オーダー列柱

東京・日本橋で偉容を誇る重要文化財「三井本館」。三井財閥の本拠地として建設された一大建築物は團琢磨暗殺や財閥解体など、80年以上にわたり三井の歴史を見つめている。

明治35年(1902)に竣工した駿河町三井本館(旧三井本館)は完成から20年後の大正12年(1923)、関東大震災で大きな被害を蒙った。建物の躯体そのものは、それほど致命的なダメージを受けていなかったが、問題は内部の焼失であった。そのため改修するか、完全に改築してしまうかの決定が迫られていた。

三井合名としては、当初改修する方向で進んでいたといわれるが、震災復興に対して三井が範を示す必要があるということ、また三井の諸事業の発展拡大により、今後、旧三井本館では手狭になると予想されたため、方針を転換。旧三井本館を解体し、新本館を建てることとなった。

海外の建築技術を導入

建替えは一刻も早く実行する必要があり、三井合名理事長・團琢磨は海外の建築技術の導入を決定。明治43年(1910)の欧米視察旅行の際に面識を得たアメリカでの人脈を生かし、設計はトローブリッジ&リヴィングストン事務所に、施工をジェームス・スチュワート社にそれぞれ委託した。こうして昭和2年(1927)、新たな三井本館の建築工事が開始された。

三井本館の意匠については「壮麗」「品位」「簡素」の3つのコンセプトが定められた。

外観デザインは20世紀におけるアメリカの新古典主義的なデザインを採用。クラシカルではあるが、過度に華やかさを強調しない抑制された美ともいうべきデザインで、これは3つの要素のうちの「品位」と「簡素」を表している。残りの「壮麗」については、ローマ風のコリント式大オーダー列柱にその要素が見出される。オーダーとは階を貫いてそびえる柱のことで、本館の大オーダーは建物の3面にわたって用いられ、無用な変化をつけることなく整然と並べられた。

三井本館は、約3年の歳月をかけて昭和4年(1929)3月に竣工した。総事業費は2,131万円(現在の約1,000億円)。地上7階(竣工時は5階)、地下2階の鉄筋コンクリート造りで、外装にはすべて花崗岩を使用。インテリアには大理石をふんだんに用い、あらゆる面で近代的な業務に応じられる設備を備えており、三井合名をはじめ、三井銀行・旧三井物産・三井鉱山・三井信託など直系各社入居し、本社機能を集中させた。

戦前・戦後の動乱を乗り越え

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地域に古典的景観美を与えながらも、最新ビルの日本橋三井タワー並ぶ三井本館

しかし、国内情勢はアメリカから始まった世界恐慌などの影響を受け、大きく揺れ動いていた。金融・商業界は円安を見越してドル買いに走り、それが財閥の拝金主義とされ、世間からの反発を招いた。特に三井はドル買いの中心とみなされ、設計と施工をアメリカに発注した三井本館は高まる反米感情をさらに刺激した。このような状況下の昭和7年(1932)、理事長・團琢磨が本館玄関前で血盟団員の凶弾に倒れた。昭和16年(1941)には、国家総動員法に基づく金属類回収令により、三井本館からも次々に金属類が回収され、惨憺たる姿となっていった。

やがて終戦を迎え、連合軍は進駐を開始。GHQは多くのビルを接収し、三井本館も4、5階の接収が行われた。このとき進駐軍は、暖房用の電気配線のために木製扉の上端を切り取った。しかし、扉の一部が破損されるのを惜しんだ三井の管理者らは、切り欠いた扉の木片を大切に保管し、接収解除後にその木片によって扉を補修したという。

辛酸をなめた三井本館だが、占領終了後は再び三井のオフィスビルとして使用され、平成10年(1998)に「意匠的に優秀」「歴史的価値が高い」との評価を受け、国の重要文化財に指定された。

竣工から80年以上の時を経た現在も、三井発祥の地・日本橋で三井グループを見守り続けている。

※ 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く個別の企業体です。

三井本館
所在地:東京都中央区日本橋室町2−1−1